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寝物語、銀いろの、をんなたち、きまぐれに、残響、向こう岸まで。


 先日、数年振りにねぎを刻んだ。自分で買ったものではなくて、買ってもらった長ねぎだ。ねぎを買うなんて、自分じゃできない。ここ数年のねぎとの付き合いは、小さなパック入りの刻まれたねぎを、年に数度(片手の指で足りるくらい)購入する程度である。もっと云うと、生野菜はカット野菜、あとは冷凍野菜しか食べていない。包丁の扱いが極端に下手だったり、野菜を買えないほど経済が逼迫していたりといった理由ではなく、野菜全般を刻む元気がないからだ。刻む元気もないし、生野菜を無駄にしない自信も、駄目になった生野菜に向き合う気力もない。数年前から現在進行形でわたしはそんな状態だ。

 長ねぎを束ねている青いテープを切るために、2本のねぎの隙間に包丁の切っ先を差し込んで、ぎこちない手つきで剥がしたとき、そうだ、ねぎを刻むってこういうことするんだった、と生活の記憶に指先が触れた。外側の皮(?)を剥がして、半等分にする。半等分じゃなくて、白い部分と緑の部分で分けるべきだったなと早くも反省する。端を揃えて刃を入れる。ざくっとする。青い匂い。緑の水分。繊維が強くて硬い。力を込めて繊維を切る。刻んだものを右側に寄せて溜まってきたら、密閉容器に移す。幅の揃わない、ところどころ繋がっている、不格好な小口切りになった。刻んだ分は密封容器に、気力が尽きて刻みきれなかった残りは小さいビニール袋に入れて、冷蔵庫にしまった。包丁の切れ味が悪かった。100均で砥石は売っているかな、と思った。思って、わたしは野菜を刻む生活を取り戻せるのだろうか、と冷蔵庫の前にしゃがみこみ、ぼんやりした。どうだろう、わからない。

 後日、ねぎの続きを刻んだ。刻んで納豆ご飯を食べて、残った分は別の日に、炊飯器で味付けご飯を炊いて使いきった。納豆ご飯は美味しくて、炊飯器は便利で、わたしは少し健康になった。気がする。
 何年ぶりかわからないくらい久しぶりにねぎを刻んで、素直にうれしかった。暮らしが戻ってきているかも。指先から浸透するかすかな感触と、これが錯覚でなければいいと深呼吸を必要とする、数秒間があった。

 ねぎを刻むことには、とくべつな思い入れがある。

 ねぎを刻んでいるあいだじゅう、というか、ねぎを買ってもらったときからずっとあたまのなかで呪文みたいに、「ねぎを刻む、ねぎを刻むだ」と唱えていた。『ねぎを刻む』とは、江國香織さんの短編集『つめたいよるに』(新潮文庫)に収録されている小説のタイトルである。
 話はとてもシンプルで、語り手の「私」(おそらく会社勤めの二十代~三十代の女性)が、帰りの電車から降りる一瞬、ホームに足をつける0.1 秒のその刹那、「あっ、と思う」ところから話は始まる。あっ、と気づいたときには手遅れで、「孤独の手のひらにすっぽりと包まれて」しまう。その孤独は3ヶ月に一回くらいの頻度で急にやってきて、彼女はその孤独をやり過ごす方法としてねぎを刻むのだ。

 初めてこの小説を読んだ中学生のわたしはこころに決めた。おとなになって、あっ、ってなったら、あるいはどうしようもない悲しみに襲われたら、この小説のみたいに、ねぎを刻もう。ねぎを刻んで心を落ち着けて、刻んだねぎをたっぷりかけて、ご飯を食べよう、と。

 「私」は孤独に襲われても、すぐにねぎを刻まない。帰宅後、床に倒れ込んだり、呻いたりする。ほかにも、牛乳パックに直接口をつけて牛乳を飲む。そうすると、コップを使うよりも孤独ではない気がするから。あとは、電話をかけまくる。それも、電話に出ないであろう相手を選んで。こういう夜は誰かと話せば話すほど孤独になるから。なら最初から電話なんてかけなければいいし、アドレス帳をひっくり返して電話をかけまくれる友人が複数人いて、家族や恋人とも良好な関係を築けているのだから、あなたは孤独ではないよ、と云いたくなる。でも、わかる、違うのだ。他者の存在を認識してはじめて、人間は孤独を感じることができる。そして孤独を紛らわす最終手段として、彼女はねぎを刻む。

 こういう夜は、ねぎを刻むことにしている。こまかく、こまかく、ほんとうにこまかく。そうすれば、いくら泣いても自分を見失わずにすむのだ。ねぎの色、ねぎの形、ねぎの匂い。指先にしんなりするねぎの肌の感触。ねぎを刻みながら、また涙がおしよせてくる。目の前が浅い緑色ににじむ。ごはんのスイッチをいれてねぎを刻み、おみそしるを作ってねぎを刻み、おとうふを切ってまたねぎを刻む。一心不乱に、まるでお祈りか何かのように。誰かに叱られたら改心できるのだろうか。私は改心したいのだろうか。なにを。どんなふうに。

江國香織『ねぎを刻む』179(新潮文庫)

 「私」の状況は突発性の孤独で、「手のひらに包まれて」いるような種類の孤独で、なんとなく、やさしい。それがたとえ「つめたい大きな手のひら」だとしても、手のひらに包まれるという表現から感じ取れるのは、彼女の孤独には、包み込むような、掬い上げるような、優しさが入り込む余地のあること。

 はたして現実のわたしは、どうしようもない悲しみの底に突き落とされて、どうしたか。何もできずに生活を失った。ねぎを刻むことは、わたしの悲しみには、届かなかった。
 かつて人生の酸いも甘いも何も知らず、小説に描かれた孤独や悲しみに憧れていた頃、これから自らの身に訪れるさまざまの悲しみを、実際にそれが起こったときに自分の心身がどのように沈んでゆくのかを、まるで分かっていなかった。恋に恋するように、小説のような悲しみに憧れて、わたしはほんとうに、世間知らずだった。

 元気のない貧乏人にとって、ねぎは、あったら良いけどなくても別に困らない食材だ。もしもねぎを購入したら、刻んでタッパーに入れて、できるだけ早く消費する必要がある。料理のレパートリーが極めて少なく、主な使い道が納豆ご飯にかけるもの、となると、消費量も期待できない。何より、元気がないときは、冒頭にも書いたが、ねぎを刻む気力すら湧かない。冷蔵庫でしなしなに干からびた万能ネギが視界に入るたび、万能と名のついた食材を無駄にする自分の無能っぷりを目の当たりにして自己嫌悪に陥る。余力がないのだ。何をなすにも、今日足りないエネルギーを明日の分から前借りするように生きているのに、ねぎを刻むことなど、どうしてできようか。

 わたしはねぎを刻めない。でも、『ねぎを刻む』はすごくすき。だって、江國香織さんの小説には、唯一無二の美しさがある。フィクションという、ファンタジーという美しさがある。

 孤独の手のひらに包まれる「私」のことがうらやましい。どんなに孤独でも、ねぎを刻んだり、豆腐のお味噌汁を作れたり、泣いたりできる「私」のことが、たまらなく眩しい。わたしだったらたぶん、こういう夜は、ジャンクフードを食べてしまう。健康になろうとする自分を受け入れられなくて、マックのセットをお持ち帰りして、デザートにアイスも食べる。もしくは帰宅後、手洗いうがいすませたら、みたらし団子を食べて、夜ご飯をポテトチップスにして、さいごはアイスでしめる。江國香織さんの小説にはぜったい出られない性質の人間なのだ、わたしは。だからこそ、彼女に憧れる。
 きっと読者は「孤独」を違う言葉、感情に当てはめて読むことができて、でも、『ねぎを刻む』にぴったりなのは、やっぱり「私」の「孤独」だ。彼女の孤独だからこそ、ねぎを刻むことがこんなにも胸に沁みるし、この小説を忘れがたく思えるのも、それが代替可能な物語ではないからだ。 

 「私」が泣きながら刻む野菜が、玉ねぎではなく、ねぎ、というのも良い。泣いてすっきりするために彼女は刻むのではない。涙はは孤独の副産物に過ぎない。ほかの野菜、キャベツやにんじん、大根やきゅうりでは彼女が刻む野菜にふさわしくない。ある程度長い時間、刻み続けることができる野菜。弱っているときに、強く力を込めなくても刻み続けることができる野菜。こまかく、こまかく、刻まれたねぎは、涙の粒のかたちにも、似ている。

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 あと少し、江國香織さんの文章についても触れておきたい。江國香織さんは、初めてわたしが文章表現というものをはっきり意識する、比喩や固有名詞の選び方、ひらがなと漢字の使い分けにこだわりたいと思うようになったきっかけ、美しい文章を書きたいと切望するようになったきっかけの作家だ。
 たとえば、

さっきまでおしつぶされて、くしゃくしゃの紙くずみたいに変形していた人びとは、ホームに降り立つと途端に正しい大きさにふくらんで、元の形のちゃんとした男や女になって足早に歩いていく。

江國香織『ねぎを刻む』P176-177(新潮文庫)

 こんな一文に、中学生のわたしは静かに興奮していた。「おしつぶされて」や「ふくらんで」がひらがなで、「途端」は漢字で書かれること(“難しい“漢字だからひらがなにするわけではないこと)(文字自体が表情を持つこと)。「くしゃくしゃの紙くずみたい」といった比喩。「人びと」と一括りにされていたのが、元の形に戻ったら「男や女」と具体的な人間の性を取り戻すこと。文章表現ってこういうことなのか、と衝撃を受けた。

 ちなみに初めて読んだ江國香織さんの作品は『きらきらひかる』(新潮文庫)だ。ストーリーやキャラクターの魅力的なことは云うまでもなく、章タイトルからあとがきまで、すべてが大好きな小説である。そのなかでもとくに印象に残っている表現がふたつあって、

ひとつめはオノマトペ
「口のまわりがトマトソースでくわんくわんになっている。」
ふたつめは、望遠鏡を覗いて星空を見たときの感想、
「空いっぱいにのりたまをちりばめたみたいだ、と思った。」

 このふたつは、いままでに数えきれないくらい読み返して、憧れて、参考にしようとして、筆力不足を思い知らされて落ち込み、それ以上に、この文章を母語として読めることの幸福を噛みしめてきた。
 何もかもがぴったりな表現ができるようになりたい。オリジナルのオノマトペを作ってしれっと文章に忍ばせたい。わたしのオノマトペ好きは、江國香織さんの『きらきらひかる』の「くわんくわん」から始まった。

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『ねぎを刻む』は、「私」が食事の準備を整えるシーンで終わる。「私の孤独は私だけのものだ」としっかりこころに留めて、「泣きやんでからごはんを食べる。」と宣言する。泣きながら食べるのではなくて、泣きやんでから、食べる。緑色の食卓。彼女を彼女たらしめる、健やかな孤独。

 わたしはたぶん、一生、江國香織さんの描くような「おとなの女性」にはなれない。だからこそ、江國香織さんの小説に憧れるし、現実に干渉させないまま、立ちのぼるフィクションの芳香にうっとりできる。
 どうしようもない悲しみがある。かつても、いまも、ずっと、ここに。そんなときに手のひらに見つめる文章は、ねぎの香りの涙が滲みても痛くないような、ファンタジーがいい。あなたの悲しみはあなただけのものだ、と囁いてくれるような、美しくて優しいファンタジーがいい。

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