ニワカ学生運動論 「『可能と思われていること』論」編
注意
この記事を書いたのは運動の理論も運動史も「ニワカ」なその辺のミーハー大学生なので、話半分で読んでほしい
ここに書くことは、あくまで私の運動についての自戒である。他者の運動にああしろこうしろと言う意図は一切ない。
この記事は「ニワカ学生運動論」の後編にあたる。前編「二段階『運動』論」編との続き物になっているので、ぜひ読んでほしい。
はじめに――木登りってやっちゃだめなの?――
前編では「今日日学生運動するにはまず『下地』が必要」「政治性を出すにはまだ『時期早々』である」みたいな話を書いた。後編では、「じゃあその『下地』って何?」という話とか、「結局なんで私は『ウンドウ』をしたがっているの?」というより深い話をする。つまり、「二段階『運動』論」の「第一段階」とは具体的に何かという話だ。
ご存知の通り(?)私は「アマチュア木登研究所(@nobonobotrtr)」に影響を受け木登りを行っているわけだが、
木に登っているとよく言われることがある――「そんなことしていいの?」と。木登りは(ほとんどの場所において)禁止も規制もされていないことであるが、なぜそう言われるのだろうか。
「可能と思われていること」と「実際に可能なこと」
その理由の一つに、世人の間で「可能と思われていること」と「実際に可能なこと」の間にある大きな乖離が挙げられるのではないだろうか。木登りは「実際に可能なこと」であるのに、「可能と思われていること」の範疇に入っていないのだ。
そしてこの両者の乖離は「木登り」にとどまるものではないだろう。それこそ、前編で取り上げた、「学費値上げ反対運動」に集まる冷笑や、弊学で行われたパレスチナ連帯デモに集まった「反対」(詳しくは下の記事に)もこの乖離に原因があるのではないか。これが解決されない限りは、いわゆる「政治運動」はマジョリティに訴求することはないだろう。
この乖離を図にしてみると、下の図1のようになる。図中の黄色の点のように、「木登り」にしろ「デモ」にしろ、「実際に可能なこと」の範疇にあるにも関わらず、「可能と思われていること」の範疇にはないのだ。
乖離の縮小
では、この乖離を縮める方法には何があるのか。一つは、「可能と思われていること」の拡大である(図2参照)。個々人の中の認識が変化し、それが拡大すれば黄点の木登りは――そして「政治運動」も――許容されるようになるだろう。そしてこれが「二段階『運動』論」における「第一段階」である。
もう一つは、「実際に可能なこと」が縮小することである。図3のように、ルールや法律が厳格化し、可能なこと自体が減れば乖離自体は解消される。しかし、あなたが国家主義者ではない限り、これは避けるべき事態であろう。「実際に可能なこと」の縮小=ルールの厳格化を招く、冒険主義的な運動は控えたいものだ。
「可能と思われていること」の拡大
では、「可能と思われていること」拡大のためにはどうすればいいのか。前編に引き続き「権威」の笠を着るようで忍びないが、「万学の祖」アリストテレスがヒントをくれる。
アリストテレスは、「どのように『徳』を形成できるか」という議論において「人柄は同種の行為を反復することで後天的な『性向』として得られる」と主張した※1。その理屈で言えば、「実際に可能なこと」の範疇にあり、「可能と思われていること」の範疇にはない行為――例えば木登り――を重ねれば、行為者の中の「可能と思われていること」を拡大できるのではないか。さらに、そのような行為を繰り返し目撃した人間の中のそれも(ある程度は)拡大できるのではないか。
要するに、ほどほどに逸脱的なことをやって大勢に見せれば、学生自治的な精神は回復されていくのではないかということだ(先述のように、逸脱しすぎてルールを厳しくされると逆効果なのであくまで「ほどほどに」)。
※1 萩野弘之 他(2022).『新しく学ぶ西洋哲学史』. ミネルヴァ書房. p44-46.
なんで拡大を目指すの?
では、なぜ「可能と思われていること」の拡大を私が目指しているのかという話に移ろう。
一つは、前回記事の「二段階『運動』論」によるものである。
パレスチナ連帯運動や学費値上げ反対運動が高揚する中、それらの運動に関わる私としては「可能と思われていること」が拡大し、運動への参加やリアクションが活発な大学シーンにしていきたい。あと普通に左右問わず学生運動してるキャンパスの方が個人的に面白いのでそうなってほしい。
もう一つはより個人的な理由である。究極的に言えば、私が運動をやっているのは「私」個人のためであり、別に「社会のため」とかではない。「私」が「カルト的なもの」に対して「内心の自由」を守る訓練として、だ。
下の記事に書いたように、私はとあるカルトにいたわけだが、
「カルト」的なもの(カルトそのものとか、全体主義とかそういうやつ)というのは、「可能と思われていること」を縮小することを目指すものではないのかと思っている。信者の内心に干渉・成形し、「カルト」に都合の悪い行為や思考を「自ら」止めるようにしているのではないかということだ。フーコーの言うところの「規律訓練型権力」というやつだ。
「カルト」は私の中の「可能と思われていること」を縮小しようとしてくる。であれば、運動をしたりして私の中の「可能と思われていること」を拡大させようとしていれば、「カルト」に対する抗体みたいなものを自分の中に形成できるのではないかと思っている。なので、私の運動は究極的には自己本位的なものであり、他人がそれを見たり参画したりして彼もその抗体を共有するならそれはそれでいいことかな~と思う(けど「他人本位」ではない)ようなものである。
おわりに
私の活動は「二段階『運動』論」と「『可能と思われていること』論」を軸にやっていきたいと思っている。まあ要するに「先走らない」「やりすぎない」ということだ。私がこの軸から逸れたことをしていたら叱ってほしい。