ESS・アカデミックディベート葬送【①邂逅と対パワハラR先輩闘争と「セオリー」という名の屁理屈編】
はじめのはじめに
本稿は、辞めたサークル、辞めてないけど嫌々やってるサークル、特に関係はないけど傍から見ててオワコンなサークルの総括論評等をやる「サークル葬送サークル」の活動の一環(というか初活動)として書いた記事である。この記事みたいな活動に興味がある人は私にDMか何かして質問してほしい。
また、本稿は一部自己検閲を施している。完全版が欲しい人は、学祭だかイベントのときに来てもらえれば売ってるだろうし、言ってくれれば販売する。
はじめに――何を「葬送」するのか――
冬の寒さを抜け、暖かく…を通り越して熱くなってきた、地球温暖化真っ只中の今日この頃、皆さんはいかがお過ごしだろうか。
突然だが読者諸氏は"ESS"というサークルの存在を知っているだろうか。「アカデミックディベート」という競技についてはどうだろうか。それは、伝統のある文化系サークル活動であり、幾層にも積み上げられてきた文化であり、おそらく数年後には弊学から消えて、過去形で語られるようになるであろう歴史であり、そして何よりも、私の大学生活の半分であった。本稿は、そんなESSの中で行われている「アカデミックディベート」という競技とその文化のオワコンさを、笠井潔氏に代表される「マルクス葬送」にかこつけて、「ESS・アカデミックディベート葬送」と題して記録し、それを「葬送」しようと試みるものである。いくらオワコンと言えども、数十年間、数百数千の人間――その末端に私がいる――が積み上げてきた文化である。せめて、記録して後世に残さねばならない。少なくともそう試みることが、いくら泥船とはいえ阪大ESSという古巣を捨ててしまった私にできるせめてもの「供養」である。
ESSとは? アカデミックディベートとは?
"ESS"――正式には"English Speaking Society"――とは平たく言えば「英語部」である。英語を使う活動をいろいろとやるのである。そして、まずこのESSの組織構造からして説明が難しい。ESSという組織の中には、「セクション」というサブグループがある。大学ごとに多少の増減はあるが、弊学には、英語劇をやる「ドラマセクション」や、「ディスカッション」という競技を行う「ディスカッションセクション」、「パーラメンタリーディベート(英語ディベートにも種類があるのだ!)セクション」、そして本稿の主題たる「アカデミックディベートセクション」の4つがある。
それで、このアカデミックディベート(以下アカデ)がどういう競技かというと、一言で言えば「準備型」ディベートであり、この点で「即興型」ディベートであるパーラメンタリーディベート(以下パーラ)と区別される。そして、なにが「準備型」かと言うと、試合の前に論題(ディベートのお題)が分かっているから、事前に立論(お題の政策に賛成/反対する理由)や想定問答を用意できる――あるいは、「用意しなければいけない」とも言える――のである。ちなみにパーラだと試合開始15分前くらいに論題が開示される。故に「即興型」である。
そして、このアカデの歴史は古く雪白し。アカデの全国組織であるNAFA(全日本英語討論協会)は1983年に設立された※1。以来、幾多のディベーターが、戦法やしきたりなどにおいて文化を積み重ねてきた。NAFA公式サイトの資料集の豊富さと込められた熱量――最早読む人間も少なくなってしまったが――を見ればわかる※2。
※1https://www.nafadebate.org/about-debate/historyより。
※2https://sites.google.com/nafadebate.org/library/study-debate?authuser=0
この記事は何?
……ESSとアカデの説明をしているだけでも1,500字になってしまった。昔話とは良くないものである。本稿は、ESS、特にアカデミックディベートの抱える問題を、私の2年半のESS生活を追っていきつつ指摘するものである。無駄に煩雑なしきたりや、屁理屈にしか思えない「セオリー」戦法といった競技の問題点に加え、権威主義はびこる組織風土についても触れる。
また、より普遍的な、「『既存サークル』の衰退と『マイナーサークル』の勃興」というサークル文化の転換についても論じたいーー私は「既存の文化系サークルの半分は数年後には消滅している」と予言する。しばしの間、私の回顧録にお付き合いいただきたい。
1年前期ーーESSとの出合いーー
入部
2021年4月、かの悪名高きコロナウイルスが蔓延してまだ1年、「コロナ禍」真っ只中の年だった。授業も「オンライン」、サークルの新歓もほぼ全てが「オンライン」、キャンパスを歩けど人影見えず――私は、そんな月を新入生として過ごした。
当時の私は非常にウブだった。だから、大学生になったからには、何らかの部活かサークルに属さねばならぬと無根拠に信じていた。拠る木としてESSを選んだのも、そんな消極的な理由だった。高校の時もESSに入っていたのも決め手だった(といっても、高校でESSに入ったこと自体同じ理由だったが)。
そして、ESSに入ったからには、「セクション」を選ばなければいけなかった。「ドラマ(英語劇)」「ディスカッション」「パーラ(即興型ディベート)」「アカデ(準備型〃)」・・・・・・これまた消極的な理由だが、「一番やれそう」な「アカデ」を選んだ。ちなみに、この時は「とてもできない」と真っ先に選択肢から消した「英語劇」だが、今や私は語劇祭という学部のイベントで英語劇の脚本・演出をやっている。運命とは数奇なものである。
新歓期とアカデ第一の問題――とにかくわかりにくい――
閑話休題。アカデに入り、その新歓活動――これまたオンラインだったが――に参加し始めた私は第一の壁に直面する。アカデという競技はとにかく「わかりにくい」のである。難解なしきたりやジャーゴン(専門用語)がやたらと多い。その典型例が、「ロードマップ」と呼ばれるしきたりの一つである。アカデ界隈の「バイブル」と言っても過言ではない”Debate Manual”から説明を引用しよう。ただ、別に読み飛ばしてもらっても構わない。
……おわかりいただけただろうか。わからなくてもよい、数年後に続いているかも怪しい競技のルールの知識なのだから。ともかく、ロードマップというのは、ディベートにおいて自分のターンが来た時に、毎回最初に挟まなければいけない儀式で、その内容は状況によっていかようにも変わりうるのである。そして、これはアカデの試合には必須なのである。つまり、新入生もこれができないと試合すらままならないのである。さらに、ロードマップとか、「議論を伸ばす」とか、「この議論がボーターだった」とかとにかくジャーゴンが多いのである。その惨状たるや、一年生大会であれば、ルールを一通り理解していれば上位に食い込めるほどである――多くの一回生はルールを把握しきれていないから――。実際私はルールを他より理解しているというだけで、一年生大会ではだいたい3、4位くらいに入っていた。
そしてこのわかりにくさのため、新入生がまともに試合できるようになるまで少なくとも半年はかかる。最初の半年間は、ゲームができるわけでもなく、ひたすらよくわからない競技について座学というわけだ。
こんな調子だから、新入生の多くは難解な割にわかりにくいアカデからやがて離れていく。というかこれこそ昨今のアカデ衰退の最大要因であろう。しかし、私はアカデに残った。幸運にもルールが理解できたし、引っ込み思案で他の新歓に行くのも腰が重かった。なお、指導してくれた当時三回生の先輩はとてもいい人だった。お世話になりました。
一年後期①――魔のR先輩と「セオリー」との出会い――
パワハラRとの出会い
「キエフキャンプ」という夏休みのESSインカレ合宿(後編で解説)を越え、秋冬学期になると、気づけばアカデセクションの実質的リーダーになっていた。原稿や資料の準備を主導しているうちに、一回生の間の同輩中の首席のような立場になっていたのだ。ただ、それはそれでよかった。難解なアカデに慣れてきて、みんなで試合に向けてワンチームで取組んでいた……あのR先輩が来るまでは。出会ったのは確か9月のある――相変わらずオンラインだった――活動のときだ。当時4回生、Rなるものが来るとは、M先輩から聞いていた。しかし、あんな人間が来るとは思ってもいなかった。このRは、一言で言えばパワハラ野郎であった。こいつはまず、とにかく言動が粗野だ。
上はある時のRとの対話の記録である。粗野な方がR、丁寧な方が私である。一目瞭然であろう。一回生の私が、こんな権威性マシマシの四回生(なんかアカデも強く界隈でも発言力があるらしく、それもまた権威性)と継続的にやり取りしないといけないわけである。しかも私は一回生数人の代表として(!)。そもそも上回生としては自らの権威性を自覚し、努めて丁寧なコミュニケーションを取るべきところを、むしろ粗野なコミュニケーションを取ろうとするこいつは無思慮である。あと彼はやたら誤字が多かった。多分送る前に見返したりもせず無思慮に送っているのであろう。なお、こいつ以上の年代のアカデ界隈には権威性野郎が多いので注意が必要だ。
また、Rの悲惨な末路については後に触れるので、楽しみにしてほしい。
屁理屈?いいえ、「セオリー」です
こいつの問題点は何もパワハラだけではない。彼はまた勝利至上主義で、勝つためならいかなる手段も選ばないというスタンスだった。その「手段」というのが、禁忌と詠んでも差し支えない「セオリー」という戦法である。
この「セオリー」というのは、もちろんアカデ界隈のジャーゴンの一つであり、決して一般的な「理論」という意味ではない。それは、相手側が使った単語の定義やら何やらをあえて「曲解」して、自サイドの勝ちにつなげようとする戦法である。こんな言い方すると権威性マシマシのセオリーオタクから「いや違う、セオリーっていうのは…」みたいに指摘されそうだし、実際この説明は簡潔に過ぎるが、全国競技人数が数十人の競技についてそこまで厳密にならなくても良いだろう。一応ちゃんとした(?)定義を下に乗せておく。
そしてセオリーの一例として、Topicalityという戦略を紹介する。説明の簡易性のために、ここで仮定の試合の例を出す。
"Japan should abolish the death penalty"(日本は死刑を廃止すべきである)という論題でディベートをするとしよう。肯定側は、「死刑囚の人権」や、「死刑廃止国からの国際的な非難」という風に普通の議論(後に言うところの「ネット」)を展開する。そこに、セオリー使用者の否定側が表れ、こう言う。
「辞書によれば、"japan"は『漆』という意味である。そう解釈すると、論題は『漆は死刑を廃止すべきである』という意味になる。しかし、当然ながら漆は死刑を廃止できない。すると結論としては論題は『否定』されるから、我々『否定側』の勝ちである。」
ちなみに一応japan=漆という意味はあるので下に乗せておく。
読者諸氏の九割八厘くらいはこれを見て、こう思うだろ。「屁理屈だ」と。その感想は全くもって正当なものである。そして一厘のアカデ界隈の方々は「Topicalityにはこんな裏付けがあって~」「いや、セオリーというのは~」と言いたくてウズウズしているだろうが、落ち着いてほしい。私もこの説明が単純に過ぎるのは理解している。しかし、そんなよくわからない理屈に興味がある人間はほとんどいないのだ。いたらアカデはこんなに人が減ってない。残り一厘の、純粋にセオリーに興味を持った奇異な諸氏は、先に挙げた「THE PERIOD OF PERIOD」などを読んでその飽くなき知的好奇心を満たしてほしい。無駄に深みだけはある世界である。
「セオラー」という権威主義の癌
そしてセオリーの問題点はただ屁理屈であることにとどまらない。セオリーを信奉する者が派閥――「セオラー」――を形成し、権威主義の風土を作っているのである。
アカデ界隈には一つの大きな対立軸が存在する。「ネット」VS「セオリー」というものだ。「ネット」とは、上の例で言う「死刑囚の人権」や、「死刑廃止国からの国際的な非難」などの「普通の」議論のことである。そしてこの対立軸の中で、「セオラー」たちは、ネットを蔑視し、セオリーこそが至上であると信じている。
それだけならまだ良い。個人の自由だ。ただ、問題は、「セオラー」たちが「偉い先輩」の戦法やレクチャーをありがたがり、「セオリー」を理解できていればできているほど偉いと思い、「偉い先輩」やその腰巾着が権威を持つ権威主義の風土を形成していることだ。
セオラーたちはどういうわけか非常に寒いノリを中心に回っている。先に述べた、「THE PERIOD OF PERIOD(略してPOP)」――セオラーの「バイブル」――を開けばそれはすぐにわかる。ちなみに、著者は「梁山泊」なるグループを作っていたようで、POPも「梁山泊」名義で発表している。
この著者を頂点とする梁山泊の権威主義と「内輪ノリ」は、「セオラー」の中で再生産され、現在まで続いている。その末端にいるのが、Rである。
そしてこういうやつらのもとでのサークル活動は、「楽しいから」と主体的に参加するものではなく、「やらなければ」という動機による受動的なものになる。これは、サークル活動としては不健全なものであり、本来「〇〇という活動がしたいから」存在するサークルが、「自己の保存」のための団体になる「手段の自己目的化」の典型例である。この点において、私のESS生活は宗教団体でのそれと性質を同じくしていたと言える(ある宗教団体にいた経験から言っている。宗教の方の話は下の記事を参照)。
現在、そして将来のためのKIEFへの提言
(自己検閲 読みたい方は学祭だかのときに来てもらえれば売ってるだろうし、言ってくれれば販売する)
細かくは控えるが、一般論として、辞めた後、アラサーになっても部活の合宿に来続ける。しかも、OBOGとして影に潜むのではなく、本来学生が握るべき手綱を自分が握り、自分のやりたい放題に運営する。さらには競技についても自論を振りかざし異論を抑圧する。このような人間は世にどのように評価されるだろうか。ここに権威性がないと言えるだろうか。あくまで一般論の話である。
次回予告
次回「②古き良き時代と第一の失恋とパワハラK追放編」では、アカデという競技のオワコンさに注目した本稿と打って変わって、私個人の1年後期の人間関係などヒューマンドラマが展開される。先輩の抑圧の下ながら、同期と純粋にディベートに打ち込む「古き良き時代」。その中で起きたささやかな失恋劇と、Rが阪大から追放されるまでの末路を赤裸々に書き綴っている。私の弱みを握りたい方はぜひ次回も読んでいただきたい。