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叙景でも寓意でもない 北川冬彦

北川冬彦という詩人の作品を読む人は、もう少なくなってしまったのかもしれない。
でも昭和三十九年刊『しんかん』に、「日没」という素晴らしい散文詩があるのでご紹介したい。
詩集のタイトル『しんかん』を北川は、「信管でも、心肝でも、震撼でも、また森閑でもいい」と言っている。


日没
遠い山山の紫いろの襞がぼやけて、日没は完了しようとしていた。自転車でいそぐ人人が、仄見えるコンクリートの舗道を長く引延ばした。風はばったり落ち、小川はうす闇のなかにせせらぎの音を高めはじめた。葡萄園の棚で、一つの房が、何かの照明をあてられたわけでもないのに、ぱっとかがやいた。一瞬、その葡萄の房は、こともあろうに不可解なうすら笑いを浮べたと思うと、はたと消えた。日没は完全に完了し、列車の汽笛があたりの闇を深めるばかりであった。

日本の詩歌25(中公文庫)


北川冬彦の言語感覚は独特で、一行の中にまるで写真のように、そのときどきの風景を写し取っている。でも読んでわかるように、こまごまと描写があるわけではない。「舗道を長く引延ばした」のは「人人」ではないだろうに、それでも風景が見えるのは、「日没」という言葉が補って余りあるからだ。
詳細を書き過ぎないその余白に入り込むのが心象風景で、それは書いた当人の心象でありまた、読む側の心象でもあるだろう。
解説で小海永二は、「単なる叙景でも寓意でもなく、密度の高い完璧かつ純粋な心象世界の造形に成功している」と書いている。
詩がわかりにくいと言われる所以かもしれないが、わたしは逆にそこが、詩という世界の居心地の良いところだと思っている。

書き過ぎることと、こう読めと言うことはほぼ等しい。

これは小説にしろドラマにしろ映画にしろ同じことで、創作においてはいつも、伝えたいという原動力と戦う(戦わせなければいけない)部分でもある気がする。

北川冬彦が詩作と同時に、映画評論の世界でも活躍していたことは興味深い。

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