やっぱり!不自由すぎるよ自由意志(じゅいし)ちゃん!




初めに

今回のnoteでは、「自由意志は不自由である」という命題を、関係する言葉の定義なども含めて一から証明する。証明のイメージとしては、現実に即した自由意志のモデルを考えて、そのモデルについて自由意志が変化していく過程をいくつかのパターンに分類して、それら全てで自由意志が不自由に変化していくことを示す。
また、証明に用いられる数学は大学一年生レベルのものなのだけど(具体的には数学的帰納法とε-δ論法)、正しい議論ができているか不安なので指摘などがあったらお願いします。

言葉の定義

というわけで今回の証明に関係する言葉の定義をまず書いていく。過去の証明ではここをおろそかにしてしまっていた感じがややあるので、丁寧に行きたいと思う。なお、文章の構成上その言葉が登場したときに定義する言葉もある。

自由意志の定義

今回考える自由意志とは、何かについて思考し自分の行動を決定する関数のようなもの、であるとする。我々が普段行っている思考や決定は、その活動が意識下であろうと無意識下であろうと、全て自由意志が行なっているものだ、とすることができる。
上で自由意志は関数のようなものであると言ったが、この言い回しにはある程度の意味がある(数学的な言葉を無理に使って自身の主張の見栄えを良くしようとする哲学仕草ではない、ということ)。
どういうことかと言うと、ここでは自由意志を、時間によって変化していく関数のようなものとして考える。(ようなもの、と濁しているのは具体的な関数の形が皆目見当がつかないからだ。効用関数などとの類推で考えると適当な次元のベクトル関数として書けるのではないかと考えているが、少し試してみても現実に即したモデルを作れる気がしなかった。)
ここがこれまでの証明と大きく違う点の一つであり、これによって連続する時間上で自由意志の変化を考えることができるようになった。具体的には、自由意志が連続的に変化する場合について考えるときに、関数の連続性についての議論を応用することができるようになった。
また、自由意志には過去の認識によって得られた情報も含まれているとする。つまり、自分が持つ情報と、それを用いて思考をしたり行動を決定したりする関数をまとめて自由意志と呼ぶ。

認識の定義

以降で扱う認識とは、ある自由意志が視覚や聴覚などの感覚を通して外部の環境から情報を得ることと、自分が持っている情報について思考し新しい情報を得ること、そしてそれらによって自由意志を変化させること、とする(ここでの自由意志の変化には、自由意志内に含まれる情報の変化と、情報を用いて何らかの決定を行う関数の変化の両方が含まれている)。
そのため、僕たちが文章を読んで何かを新しく理解することや、その理解によって自分の行動基準を変えること、つまり自由意志を変化させることや、ただ単に物を見たり聞いたりすること、思索によって自分の考えを深めていくことなどは全て認識に含まれる。また、睡眠中の脳の働きや、特に何も意識することなく何かを見ている場合など、自由意志が自発的に行なっていない認識も、自発的でないだけでそれを行なっている自由意志が存在することには変わりないので、ここでは認識の一つとして考える。
定義から分かるように、認識は自由意志によって行われる。この点は後程重要となってくる。
ただし、以下の議論では様々な認識の細かい性質や、認識の、物理世界における実際の作用についてはほとんど考えない。むしろそういったことが明らかになっていなくても、あまり多くない仮定や原理から、自由意志が不自由である、ということを示せるのが本証明の優れた点であると考えている。

不自由の定義

ここではあるものに関して、自分の自由意志による認識に基づいてそれを決定する、ということができないとき、それは自分にとって不自由なものである、と定義する。例えば、自分が持つ遺伝子や先天的な環境は明らかに自分で決定できないので不自由なものだと言えるだろうし(自分が自分として生まれることは自分で決定できないということ。)、chinese roomのような状況で、ある法則に従って自分の行動を決定しているような場合も、その行動は自分にとって不自由なものである、と言えるだろう。なお、ここで考えている状況では、法則に従うかどうかを自分で決定しているので、その点では不自由でないように見えるかもしれないが、その決定を行なっている自由意志自体が不自由だというのが今回の主張なので、そういった指摘はあまり重要ではない。
上の定義から、自由意志が不自由であるとは、自分が持つ自由意志を自分で決定することができない、と言い換えることができる。そこで特に強調しておきたいのが、今回主張する命題の意味するところは、「私たちの行動は何かに操られている」とか「わたしたちの運命は初めから決められているのでそれを変えることは絶対に不可能だ」ということではなく、「自分の行動は自分で決定することができるが、その決定を行う自由意志を自分で決定することができない」ということであり、少なくとも僕にとっては陰謀論や運命論とは区別されるものだ。


環境の定義

環境とは、僕たちが認識できるもののうち自分の自由意志以外のもの、であるとする。環境はそれ自体によって、あるいは僕たちの行動によって変化するものであり、その変化が自分にとって不自由であることも後に示す。
環境の具体例としては物理世界全体や自分以外の自由意志、あるいは自分が置かれている物理的、精神的、社会的状況などが挙げられる。
また、今回の証明では、ある時間tにおいて自由意志と環境がそれぞれ不自由である、ということを同時に仮定するので、自分の自由意志が環境に含まれると考えても証明にはあまり影響がない。

証明で用いる原理、仮定とそれらを用いて示す定理について

この章では、今回の証明で用いるさまざまな原理や仮定について説明する。
また、ここで用いられる原理や仮定は、それを導入しても議論が現実と乖離しない、と言うのが前提にあるので、もしその点で疑問を覚えた人がいたら話し合いたい。

原理: 不自由の伝播則について

不自由の伝播則とは、あるものの変化や、自由意志が行う思考、決定などについて成り立つ原理であり、あるものの変化に対して用いる場合は「変化する前のものと、変化の過程、そしてそれらに関係する環境が全て不自由なものであるならば、変化した後のものは不自由だと言える」ということを、思考や決定に対して用いる場合は「その思考や決定をする上で用いられた情報と、思考や決定を行った自由意志、それらに関係する環境が全て不自由であるならば、その思考や決定も不自由だと言える」ということをそれぞれ主張する原理である。
今回の議論では主に自由意志の変化と、自由意志が行う思考や決定についてこの原理を用いるが、それぞれについて身近な具体例を挙げておく。
初めに、あるものの変化についてこの原理を用いる例として、折り紙を折ることを考える。
まず、自分にとって不自由な方法(他人から強制される、サイコロなどの偶然で選ばれるなど)によって折り紙が用意され、一つ一つの折る手順も同様に自分にとって不自由な方法で決定されたとすると、出来上がった折り紙は当然自分で決定できない、不自由なものとなるだろう。この例では、用意された折り紙が変化する前のものであり、一つ一つの手順がその変化の過程、自分が置かれている状況が自由意志の変化に関係する環境、出来上がった折り紙が変化した後のもの、ということになる。
次に、思考や決定についてこの原理を用いる例として、自分の知らない計算規則による何らかの計算、というものを考える。まず、自分にとって不自由な方法で計算する問題が決定される。次にその計算についての規則(例えば 3?4=17など)も同様に自分にとって不自由な方法で決定され、規則に従って問題を解いていったとすると、その計算の過程や計算結果は自分で決定できない不自由なものである、ということが言える。


このような形で不自由の伝播則を認めると、以下のような定理を示すことができる。

定理1 : 変化する前の自由意志とその変化の過程、そして変化に関係する環境が全て不自由である自由意志の変化は、自分にとって不自由である

以下の証明では主に自由意志の変化について考えていくが、その際変化する前の自由意志と自由意志が変化する過程、そしてその変化に関係する環境が全て不自由ならば、変化した後の自由意志も不自由である、ということを主張するのがこの定理である。この定理は今証明で非常に最も大事な定理の一つであり、この後の議論においても頻繁に登場するため、この定理が意味するところはなんとなくでも良いので、覚えておいてほしい。
なお、ここでいう”変化に関係する環境”とは、自分が置かれている物理的、精神的、社会的な状況や行動をする際の制約条件など様々なものが含まれているが、以降の証明ではこれら環境と変化する前の自由意志が不自由であるとまとめて仮定するので、それらの具体的性質はあまり重要でない。
それでは証明に移る。

証明
まず、仮定から変化する前の自由意志と変化の過程、そして自由意志の変化に関係する環境が全て不自由であるので、変化に関する不自由の伝播則から、変化した後の自由意志も自分にとって不自由なものだと言える。これで定理の主張は示された。

この定理は非常に強い仮定が置かれているので、証明自体はごく短いものとなっている。短すぎて何を言いたいのかよくわからないと感じた人は、不自由の伝播則の定義や最初に置かれた仮定などを見返してほしい。それでも納得できなかったら一緒に議論したいです。
以下の議論では、自由意志の変化をいくつかのパターンに分類して、それぞれに対してその変化の過程や変化する前の自由意志、変化に関係する環境の全てが不自由であることを示してこの定理を用いる、というのがこの後の基本的な流れとなる。


定理2 : 「認識による自由意志の変化」以外の自由意志の変化は、全て自分にとって不自由である


ここでいう「認識による自由意志の変化」とは、認識の定義の部分で書いたように、自分が持っている情報について思考することで自由意志を変化させることを指し、具体例としては失敗したことについて反省することで同じ失敗を犯さないようにすることや、ある問題について思考しそれを理解すること、あるいは単に視覚などを通して外部から何らかの情報を得ること、などが考えられる。
そして、上記以外の自由意志の変化とは、自分が行う認識を介さない自由意志の変化であり、例えば体調やメンタル面での好不調、コンサータなどの医薬品の効果による、物理的な肉体の変化に基づく自由意志の変化や、あるいは(存在するかどうかはわからないが)神様による天啓などによる直接的な自由意志の変化が考えられる。なお、例に挙げたような自由意志の変化は、自由意志が変化していることは認識できたとしても、自由意志による認識以外のものが変化の過程となっているという点で、認識による自由意志の変化とは区別される。
このような、自分の認識を介さない自由意志の変化が自分にとって不自由であることを以下に示す。ただ、その前に、この定理が成り立つためには一つ必要な仮定があり、それが「変化する前の自由意志や環境は自分にとって不自由であること」というものだ。そのため、この定理は「変化する前の自由意志や環境が自分にとって不自由であるならば、認識による自由意志の変化以外の自由意志の変化は全て自分にとって不自由である」といった方が正確なのだが、上記の仮定はこの後の証明でも常に成り立つものとして考えている(その理由は後述)ので、ここでも省略した。
証明は以下。

まず、上に書いた条件を仮定すると、変化する前の自由意志と変化に関係する環境が自分にとって不自由だということが言える。次に、認識を介さない自由意志の変化は、先ほど述べたようにその変化の過程が自由意志による認識以外のものとなっているので、不自由の定義から、自分にとって不自由な変化の過程による自由意志の変化だということが言える。つまり、変化する前の自由意志とその変化の過程、自由意志の変化に関係する環境が全て不自由であるので、定理1から、変化した後の自由意志も自分にとって不自由であることが言える。そのため、「認識による自由意志の変化」以外の自由意志の変化は、全て自分にとって不自由である、ということが言える。

これで定理を証明することが出来た。ちなみに、以下で行う証明もほとんど同じような形で不自由の伝播則を用いるものとなっている。
この定理の嬉しいところは、以下で議論すべき自由意志の変化を、認識による自由意志の変化だけに限定することができるところだ。上述したように、「変化する前の自由意志や環境が自分にとって不自由である」という仮定に基づいてこの後の証明も行っていくので、必然的にこの定理が常に使える、ということになり、議論が不必要に煩雑になるのを避けることができる。
また、例に挙げた物理的な肉体の変化によって起こる自由意志の変化は、その原因となる自分の行動を自分で決定しているから、そこに不自由でない可能性があるのではないか、と考える人がいるかもしれない。具体例としては、薬を飲んだことで自分の自由意志が変化した場合、薬を飲むという決定は自分の自由意志で行なっているため不自由ではないのではないか、などという疑問が考えられる。
しかしそれについては、この定理で考えているのは「変化の過程が自分の認識以外によるものである自由意志の変化」であるため、それ以前の自分の決定とその行動の不自由さは下にある別の定理(自由意志が環境に与える変化が不自由であることを示す定理)で示される、ということを説明しておく。

仮定: 自由意志と環境の初期値は自分にとって不自由である

これは証明をする上で用いる仮定である。
以下では自由意志が不自由に変化していくことを示していくが、その変化の大元となる自由意志の初期値と、自由意志の変化に関係してくる環境の初期値が両方とも不自由である、つまり自分で決定することができない、というのがこの仮定である。自由意志の初期値とは主に遺伝的な脳の性質や性格、先天的な選好などを指し、それらが自分で決定できないというのは自明であるように思うので、この仮定は現実とよく当てはまっていると考えられる。

定理3: 真の偶然は自分にとって不自由である

ここでいう真の偶然とは、かつての決定論が敗北を喫した量子力学的な偶然であり、九鬼修造がいうところの理由的消極的偶然に当たる。今回の証明ではこの偶然が存在していたとしても結論に影響がないことを示すために、あらゆる変化や決定(自由意志による決定も含む)、ものの存在などに真の偶然が関係しうる、ということを仮定する。
この真の偶然とは、その偶然を決定する変数の存在しない偶然であり、その定義上必ず自分にとって不自由なものとなる(自分で決定できる偶然は真の偶然とは言えないため)。そのため、あるものの状態やその変化などに真の偶然が関係していたとしても、それが不自由であることを示す上では影響がないということが直感的にわかると思うが、一応証明をしておく。
詳細な場合分けはあまり重要ではないと感じるので、真の偶然によってあるものの変化の過程が決定される、という状況を例として考える。

まず、先ほどの証明と同じように、変化する前のもの(自由意志や環境など)が自分にとって不自由であると仮定する。次に、その変化の過程は真の偶然の定義から、自分で決定することが出来ない不自由なものだということが言える。それらについて不自由の伝播則を用いることで変化した後のものが不自由だということが言えるので、真の偶然による変化は自分にとって不自由であることが言える。

同じようなことが真の偶然が関係する全ての変化やものの状態について言えるので、以下の証明では一々真の偶然の影響を考えないものとする。

定理4: 自由意志と環境が不自由ならば、自由意志が環境に与える変化も不自由なものとなる

これは、自由意志と環境が不自由であると仮定をしたときに、自由意志が環境に与える変化が不自由であること、を示す定理となる。
僕たちが環境に与える変化の具体例としては、手で触れることでものの位置を変えること、文章を書くこと、人にアドバイスをしてその人の行動を変えること (他人の自由意志を変化させること) 、あるいは自分の行動によって置かれている環境が変化していくことなどが挙げられるが、それらの変化が全て自分にとって不自由である、ということを主張するのがこの定理となる。
これまではほとんど自由意志の変化にのみ注目していたが、不自由の伝播則を用いるにあたって環境が不自由である、ということも必要なので、それを示すための定理だと考えてもらって良い。証明は以下。

まず仮定から、変化を与える前の自由意志と環境は不自由である。すると、環境が変化する過程となる僕たちの行動について、それを決定する自由意志と、その決定に関係する(自由意志に含まれた)情報や環境が全て不自由であると言えるので、不自由の伝播則から、環境が変化する過程となる僕たちの行動は不自由なものだと言える。そして、それらについてさらに不自由の伝播則を用いると、変化する前の環境と、それを変化させる過程が両方とも不自由であるので、変化した後の環境も自分にとって不自由であることが言える。以上より、仮定の下で自由意志が環境に与える変化が不自由であることが示された。

なお、証明では環境に変化を与える行動を自由意志が決定しているが、これが偶然による変化であったり、あるいはある環境が他の環境に与える変化であったりしても同様に、その変化は自分にとって不自由であることが言える。
この定理はつまり、自由意志と環境が不自由ならば、自由意志によって決定される自分の行動は全て不自由なものだ、ということを主張していて、不自由の伝播則が認められるならば納得のいく定理だと思う。


上記の原理や仮定を踏まえた上で、いよいよ自由意志の不自由さを証明していこうと思う。

自由意志が不自由であることの証明

まず証明の大まかな流れを書いておくと、任意の時間tにおける自由意志をf(t)として、任意の時間間隔aについて、f(t)→f(t+a)のように自由意志の変化を考える。この時、時間tにおいてf(t)やその他の環境は全て自分にとって不自由なものだと仮定する。この条件のもとで任意のtとaについて自由意志が不自由に変化することを証明することができれば、自由意志と環境の初期値が不自由であること、つまりf(0)などが不自由であることから自由意志が不自由であることが言える。
なお、上述したように、ここでの証明では認識による自由意志の変化のみを考える。そのため、自由意志を変化させる認識を順番にA0.A1,A2…として、その集合をAとする。基本的にはAのうちの任意の要素Anについて不自由の伝播則を用いることで証明を進める。

証明前の注意として、ここでは自由意志が変化する過程を二つのパターンに分けて考える(具体的には、認識にかかる時間に下限がある場合とそうでない場合)が、これは証明上必要だからというわけではなくて、自由意志が具体的にどのような過程を経て変化するか、ということについて僕が十分に考察ができていないことが原因である。一応考えられる全てのパターンについて自由意志が不自由であることの証明を行うので、結論には影響が出ないと考えているが、もし考察が不完全なパターンなどを思いついた人がいたらいつでも一緒に議論したいと思う。
また、今回の証明ではほとんど全てのパターンについて数学的帰納法もしくはε-δ論法を用いるので、それらについてなんとなく思い出しておいてもらえると嬉しい。
また、認識は自由意志によって行われる活動であり、認識が行われる際の自由意志や環境が不自由なものであったら、思考や決定についての不自由の伝播則から、認識そのものも自分にとって不自由なものとなることに注意しておく。

それでは早速証明を行っていく。

認識にかかる時間に下限がある場合

初めに、自由意志を変化させる認識にある程度時間がかかる場合を考える。
具体的には、認識にかかる時間を実数の集合で考えたときに、その下限をb>0として全ての認識はその完了までにb時間以上かかるものだとする。(このbは生物学的な、あるいは物理的な制約で定まるものとすれば、bを考えることにある程度意味を持たせられると思う。)
また、「認識が行われている最中は、その認識によって自由意志が変化することはない」ということも仮定する。つまりc時間かかる認識が時間tで発生したとすると、t→t+cの間は(その認識による)自由意志の変化は起こらない、ということを仮定する。つまり、一回の認識では自由意志は一回しか変化しないということを仮定する。この仮定にはいくつか注意が必要なので以下に挙げる。
まず「一つの認識において段階的に自由意志が変化する場合はどう考えるのか」ということについて。段階的に自由意志が変化していくとは、ある情報に対して時間をかけて思考することで徐々に理解を深めていくことなどが具体例として挙げられるが、この場合は自由意志が変化していく段階ごとに認識を分割して考えれば良い。先ほどの例で考えると、その認識が始まってからc/2時間とc時間でそれぞれ一回ずつ自由意志が変化するような認識については、c/2時間でその認識を分割することで、自由意志が一回ずつ変化する認識二つに分けることができる。
そして上のように認識の分割を考えると当然出てくる疑問として、「認識を限りなく分割していった場合、つまり自由意志を連続的に変化させるような認識についてはどのように考えるのか」というのがあると思うが、それについてはこの後の「認識にかかる時間に下限がない場合」で考える。そのため、認識にかかる時間に下限が存在する場合を考えている下の証明では、全ての認識を適切に分割することで、認識が行われている間は自由意志が変化しない、ということを仮定しても良いと考えることができる。
また、二つ以上の認識が同時に起こっている場合はどのように考えるのか、ということについては後で証明する。
このとき、時間t→t+aの間で起こる認識の回数は高々a/b回と表せるので、認識の集合Aは可算となる。

このような場合では、Aのうちの任意の元Anについて、Anによる自由意志の変化が不自由であることを示せば良い。

証明
まず、認識Anが起こる時間をtn(t<=tn<t+a)として、tnにおいて自由意志と環境が不自由であると仮定する。この時、認識Anを行う自由意志とそれに関係する環境が両方とも不自由であることから、不自由の伝播則を用いて、Anが不自由であることが言える。すると、Anによる自由意志の変化について、変化する前の自由意志と、変化の過程である認識An、そしてそれらに関係する環境が全て不自由であるので、定理1から、変化した後の自由意志も不自由であることが言える。
以上より、tnにおいて自由意志と環境が不自由であるならば、認識Anによる自由意志の変化も不自由であることが示せたので、次にtnにおいて自由意志と環境が不自由であることを示す。
ここで、tからt0の間には自由意志を変化させるような認識は起こらないことに注意しておく。すると、定理2より、認識による自由意志の変化以外の自由意志の変化は全て不自由であることと、定理4より、自由意志が環境に与える変化が不自由であることから、時間tで自由意志と環境が共に不自由であるならば、t0においてもそれらは不自由であることが言える。そして、証明の初めに置いた仮定より、時間tで自由意志と環境は不自由であるので、f(t0)とその時の環境は自分にとって不自由であると言える。
ここで、任意のi(i=0,1,2,,,)をとり、時間tiで自由意志と環境が不自由であると仮定すると、ti→ti+1での自由意志の変化について上と同様の議論を行うことで、Aiによる自由意志の変化が不自由であることが言える。更に先ほどのt→t0での自由意志と環境の変化についての議論と、認識Aiが起こっている最中は認識による自由意志の変化が起こらないという議論から、Aiが起こっている最中やAiによる自由意志の変化の後は自由意志と環境の両方が不自由であることが言える。そのため、定理2と定理4から、認識Ai以外による自由意志の変化や、自由意志が環境に与える変化が全て不自由であることが言えて、時間ti+1で自由意志と環境の両方が不自由であることが示せる。このことと、t0において自由意志と環境の両方が不自由であることから、数学的帰納法を用いて任意のnについてtnで自由意志と環境が共に不自由であることが示せた。
以上二つの議論から、任意のnについてAnによる自由意志の変化が不自由であることが示せたので、t→t+aにおいて自由意志が不自由に変化していくことが証明できた。

認識にかかる時間に下限がない場合

次に、認識にかかる時間に下限が存在しない場合を考える。自由意志による活動は全て脳内の電気信号によって行われるという考え方のもとでは、認識に全く時間がかからないという仮定は現実とそぐわないかもしれないが、実際にどのような過程を経て自由意志が変化するかが明らかになっていない以上、認識にかかる時間に下限がない場合も考えておいた方が良いだろう。
ただし、認識にかかる時間が負の値となるのは明らかに現実と合わないので、b=0としてその時の自由意志の変化を考える。具体的には、自由意志を変化させる認識について、その認識にかかる時間の極限をとることで自由意志が連続的に変化する場合を考えて、その場合でも自由意志の変化は自分にとって不自由であることを示す。
まず、以下の定理を示す。

定理5: 自由意志が認識によって連続的に変化する場合、その変化は自分にとって不自由なものとなる

この定理はある区間[d,e](ただし時間dにおいて自由意志と環境は不自由であると仮定する)において自由意志が認識によって連続的に変化していく場合、その変化は自分にとって不自由であることを示すものである。連続的に変化する、というのは認識にかかる時間が限りなく小さい場合を考えることであって、証明においてはε-δ論法を用いて表す。また、証明の際、区間内では自由意志が連続的に変化し続けること(つまり区間内に自由意志が変化しない隙間が存在しないこと)を仮定しているが、これは適切に区間を分割すれば一般の区間にも適用できる定理であることが分かる。
まず、時間dにおいて自由意志と環境は不自由であると仮定する。そして、区間[d,e]内の任意の点Tをとり、Tにおいて自由意志と環境が不自由であると仮定する。
次に任意の時間間隔ε>0をとる。この時 δ=ε/2とすると、δ>b=0であることから、その認識にかかる時間がδであるような認識が存在する。すると、任意のεについてそれよりも短い時間での認識が存在するので、εを限りなく小さくすることで、自由意志が連続的に変化していく場合を考えることができる。
この時、前項(認識にかかる時間に下限がある場合)と同じように、T→T+δの認識の最中では自由意志は変化しない、つまり自由意志の変化が起こるのは一回だけであると仮定する。(もしT→T+δ中で自由意志が段階的に変化するならば、適切にδを取り直せば良いだけであるので、この仮定をおいても問題ないことがわかる。)
すると、T→T+δでの認識による自由意志の変化について、前項の認識にかかる時間に下限がある場合と全く同じ議論ができるので、時間Tで自由意志と環境が不自由であるという仮定と合わせて、定理1 からこの認識による自由意志の変化は不自由であることが言える。また、時間dにおいて自由意志と環境は不自由であると仮定したので、自由意志の変化が不自由であることと合わせて、定理2と定理4から、認識以外のものによる自由意志の変化や、自由意志が環境に与える変化が両方とも不自由であることが言える。そしてεは任意であったので、自由意志は時間Tにおいて連続的に不自由に変化することがわかる。
これが区間内の全ての点について言えるので、その区間において自由意志が不自由に、なおかつ連続的に変化していくことが示せた。
この議論は関数の連続性についての議論と非常によく似ていて(厳密には片側連続だけど)、これは自由意志を関数のようなものだと考えた時の利点の一つでもある。

この定理を用いて以下の証明を行なっていく。

証明
任意の時間tと時間間隔aをとり、時間tで自由意志と環境は不自由であると仮定する。次に、[t,t+a]を自由意志が連続的に変化するような区間に分割して、tに近い方から順に[t0,u0],[t1,u1]…とする。このように区間を定義したとき、任意の区間[ti,ui]について先ほどの定理を用いることでt→t+aで自由意志が不自由に変化していくことを示す。
初めに、時間t0で自由意志や環境が不自由であることを示す。
まず、仮定から時間tで自由意志と環境は共に不自由である。次に、t0の定義からt→t0の間では自由意志を変化させる認識は起こらないので、前項と同じ議論を行うことでt→t0間での自由意志や環境の変化は不自由であることが言えて、時間t0においても自由意志と環境は不自由であることが示せた。
次に、任意のk(k=0,1,2,,,)について、時間tk で自由意志と環境が不自由であるならば時間tk+1でも自由意志と環境が不自由であることを示す。
まず、[tk,uk]においては、tkで自由意志と環境が不自由であるという仮定と定理5を用いることで、自由意志と環境の変化が不自由であることを示せる。また、適切に区間を分割していることから、uk→tk+1では認識による自由意志の変化は起こらない。そのため、前項の議論と同じように、uk→tk+1では自由意志と環境は不自由に変化していくことが言える。これらより、任意のkについて、tkで自由意志と環境が不自由であるならばtk+1でも自由意志と環境が不自由であることが示せた。このことと、t0で自由意志と環境が不自由であることから、分割した全ての区間で自由意志と環境が不自由に変化していくことが示せて、t→t+aで自由意志は不自由に変化することが示せた。(ただし、一番右端の区間ではtk+1を考えることができず場合分けをする必要があるが本質的な議論ではないので省略)

以上より、任意のtとaについて、時間tで自由意志と環境が不自由であるならば、t→t+aで自由意志と環境が不自由に変化していく事が示せたので、自由意志と環境の初期値が不自由であるという仮定と合わせて、自由意志が自分にとって不自由なものである事が示せた。

これで基本的な証明は終了となるが、最後に二つ以上の認識が同時に起こっている場合について補足する。
まず、全ての可能性を網羅するために二つ以上と書いたが、適切な場合分けを用いることで、二つの認識が同時に起こっている場合のみを考えれば良い、つまり三つ以上のことを考えなくても良いことが分かる。なぜなら、今回の認識の取り方では、一つの認識が完了するまでその認識による自由意志の変化は起こらないものとして考えて良いからだ。
そこで、同時に起こっている二つの認識A,Bと、それらによる自由意志の変化について、以下の二つのパターンを考える。また、これまでの議論と同様に認識A,Bが始まった時間tにおいては自由意志と環境がそれぞれ不自由だったと仮定しておく。

認識AがBよりも早く完了する場合

このパターンでは、AがBよりも先に完了するため、認識Aによる自由意志の変化が認識Bにどのような影響を及ぼすかを考える必要がある。
まず、仮定より、A,Bが始まった時間ta,tbにおいて自由意志と環境がそれぞれ不自由である。すると、これまでの議論と同様に、Aによる自由意志の変化は自分にとって不自由であると言える。すると、認識Bの最中に、それを行なっている自由意志が変化していることになるが、実はこの変化は不自由の伝播則を用いる上で何の影響もないことがわかる。どういうことかというと、認識Aによって変化する前の自由意志と変化した後の自由意志をそれぞれ別のものだと考えて、二つの自由意志が認識Bに関係していると考えれば良い。これまでの議論では、自分の自由意志のみに注目していたため、複数の自由意志によって行われる決定については考えていなかったが、その決定や変化に関係するいくつかの自由意志が全て不自由であるならば、不自由の伝播則は問題なく用いることができる。(そもそも不自由の伝播則は僕が勝手に持ち出した原理なので、ここに納得できない人は一緒に議論したい)
すると、認識Bによる自由意志の変化について、環境と、それに関係する二つの自由意志が全て不自由であることが仮定や前述の議論から言えるので、不自由の伝播則より認識Bによる自由意志の変化は不自由だということができる。

認識AとBが同時に完了する場合

この場合はさらに以下の二パターンに分ける事ができる。すなわち、A,Bが完了したときのそれぞれの自由意志の変化について、二つの間に何らかの相互作用がある場合と、そうではなくてA,Bが全く独立した認識である場合に分けられる。
まず、後者については、それぞれ独立にその認識による自由意志の変化が不自由であることが仮定から言えるので、これまでの議論と全く変わらず自由意志の変化が不自由である事が言える。
次に、A,B間で何らかの相互作用がある場合についてだが、これも結局その相互作用の元となった認識A,Bとその時の環境が全て不自由であることから、思考や決定についての不自由の伝播則を用いることで、変化の過程となる相互作用が不自由であることが言えて、変化する前の自由意志が不自由であることと合わせて不自由の伝播則を用いることで、相互作用による自由意志の変化も不自由である事が言える。

予想される疑問、反論などについて

ここでは、よりこの証明について理解を深めてもらうことを目的として、これまでの証明を読んだときに浮かんでくるかもしれない疑問や反論についてあらかじめ書いておく。僕が新しく思いついた場合や、実際に質問や反論などがあった場合には都度追記する。

自由意志によって決定されていない(と思われる)行動について

反射や生理現象など、自分が意識することなく行われる行動というのはいくつかあるが、それらが自由意志や環境に与える変化はどうなるのか、という疑問を覚える人がいるかもしれないのでここで説明する。
まず、今回の証明における自由意志の定義は「何かについて思考し自分の行動を決定する関数のようなもの」であり、反射や生理現象は明らかに思考と関係なく決定されている行動であることを考えると、これらが自由意志と関係のない行動であると感じても不思議はない。ただし、反射や生理現象などが自由意志と関係なく決定される行動であったとしても、それらが自由意志や環境に与える変化は自分にとって不自由だということを以下に示す。

証明
まず、行動が行われる前の自由意志と環境は不自由であると仮定する。次に、不自由の定義から、自分の自由意志によって決定されていない行動は全て不自由である。すると、考えたい自由意志や環境の変化について、その変化の過程となる行動と変化する前の自由意志と環境は不自由であるので、定理1や定理4から、変化した後の自由意志や環境も不自由なものとなる。



最後に

今回の証明を感覚的に分かりやすいよう短くまとめると、「時間tで自由意志と環境が不自由ならば時間tでの自由意志と環境の変化は自分にとって不自由である、ということを任意の点で示している」、ということになって、途中で証明した定理や数学的手法は全てこれらを少しでも厳密に議論するために用いられている。
そもそも今回の証明は、現実での自由意志や環境の変化について、それらが不自由に変化していくことを議論するための定義、原理の確認と、その定義や原理を実際に用いて証明を進めていく2段階に分かれていて、後者で行われいてる議論は実はあまり本質的でないと思っている(それでも僕の数学力的に不安はあるんだけど。
むしろ前半の定義や原理の確認のところに「実際に自由意志が不自由かどうか」の本質的な議論の種があると思う(特に不自由の伝播則など)ので疑問を覚えた人などは参考にしてほしい。

自由意志が不自由だとするとどのようなことが考えられるかについてはまた今度書くかもしれないが、少しだけ書くと、自由意志が不自由、つまり自分で決定できないものであることから、自分が自分であることの理由がなくなるので、あらゆる人の全ての行動に責任を求める事ができなくなると思う。


といったところで今回のnoteは以上になります。何か議論したい事がある人はコメントもしくは僕のTwitterアカウントまで来てくれると嬉しいです。
ちなみにタイトルはエロゲとかの続編を意識してます。


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