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自己紹介2:思いがけないキャリア変遷

こんにちは!しろくまです。「自己紹介*悩みとやり直しが多い人生!」を読んで下さった方、ありがとうございます!

そこで前に書いたのとは別の自己紹介も書いてみました。自己紹介2です。自己紹介1より具体的です。


ともかく、挫折とやり直しが多い人生。結婚やら再婚やら、それに伴う仕事やら学業やらが多くて長いです。

でも、わらしべ長者みたいだから読んでみてね。結婚も仕事も思い通りになったり、ならなかったり人生いろいろ山あり谷ありです。仕事に悩むひと、結婚に悩むひとのお役に立てたらいいなあ。自分もまだ道の途中だけど。

じゃ、いってみよう!!

神奈川生まれ。人の心をなごませるような名前を祖父がつけてくれる。文学青年だった父も、大好きな文豪の娘と同じ名前だったので快諾。男だったら、綱男(つなお)だった。(坂口安吾の息子の名。綱子でなかったのは幸いである。) 

子ども時代。ぬいぐるみが大好きで全部ふとんに並べて眠る。平等にかわいがることにこだわり、並べきれなくなると自分は外で寝ていた。れんげ畑やすすきの原っぱをこよなく愛し、現在のほげほげした性格が形成される。

中学時代。男にうつつをぬかす。一目ぼれした先輩の部活に決める。

高校時代。男にうつつをぬかす。生徒会書記だったが、これも会長に一目ぼれしたためという不純さである。もちろん片思いでゲームオーバー。

専門学校時代。グライダー部自動車係でグリスまみれの日々。アルバイトはガソリンスタンドでのワックス販売。各地を転々とし、ヤクザから社長にいたるまでワックスを売りまくる。芸能人被害者にマッチと小林麻美がいる。

会社員時代。営業部門提案コンクールで優勝。ラジカセをもらう。翌年また優勝。8ミリビデオをもらう。お茶くみ、コピーとり、出張、会議、セクハラ、不倫の誘いと何でもありのバラ色(一部茶色)のOL生活を送る。

ある日、自分が指導している後輩が、四大卒というだけで自分より給料が多いと知る。絶望。「留学して給料を上げよう!」と会社員のかたわら英語の勉強を始める。

当時つきあっていた男性が、「海外赴任の予定だから、留学もできるよ!結婚して留学すればいいじゃん!」とプロポーズ。喜びの舞い~。

「日本で教養学部の単位を沢山とってから海外に行った方が卒業しやすいよ」と留学経験者の彼が言う。よし、海外入学の前に日本の短大入学に目標を変更!

短大の英語科と幼児教育科に合格。姑が「英語は手段。幼児教育科の方が将来の子育てに役立つよ。」とアドバイス。偏差値は英語科のが高かったので、少し残念にも思ったが幼児教育科に入学。

入ってみたら幼児教育は心理、音楽、体育、言語、社会、絵本、絵画など様々な学びがとっても楽しい!調子に乗って短大の児童劇で桃太郎を演じる。その後、子ども冒険大活劇の主役を演じるなど『おだてりゃブタも気に上る』の良い見本となる。

帰国後の再就職の困難さを教授にさとされる。そもそも、夫が起業してしまい、海外赴任の話もなくなっていた。とほほ。

というわけで、短大卒業後留学せず大手資格取得スクールに就職。社会人、学生向けの資格取得・就職&転職カウンセラー、校舎責任者となる。これまでに1000人以上の会社員、主婦、学生の話を聴く。

会社員をしつつ通信教育で大学の児童学科を卒業。スクーリングといって学校に通う教科もあったので、社員から非常勤になり勤務日数を減らして学校に通っていた。

授業では心理学が面白く、片っ端から取っていた。仕事でも人の相談にのるカウンセリングは向いているなと思っていた。だけど、勤めていたスクールは、来校者にヒアリングして相談に乗りながら、スクールに入って頂くのが大切。正直に言えばノルマがあった。私は「この人は、別の道がいいのでは?」と思うと強引に入校を勧めることはできなかった。

「本当のカウンセリング、相手のお役に立てる相談者になりたいなあ。」そう思っていた。当時は公認心理士や臨床心理士などの公的資格がない時代。唯一公的に近かったのが当時労働省認可だった産業カウンセラーの資格。これを会社員時代に取得することにした。

「学位は取った。資格もとった。今度は経験だ!」と思い、当時近場で発足したNPOに入り、心理職勉強会に参加。縁あって保健所でエイズの電話カウンセリングを行う。

勉強会の仲間が「子どもの電話相談員の募集があるよ!」と言っていたのを小耳にはさむ。未経験でも平気かなあと思うが応募する。短大で幼児、大学で児童の勉強をしていた、カウンセラーの資格も持っている、電話相談の経験もある。みごと採用。子ども電話相談員となる。

起業した夫とは多忙ですれ違いが多くなり離婚。

子ども電話相談員は区の教育センター相談員の方々と研修が一緒だった。この頃、絵画療法や箱庭療法、コラージュ療法などアートを使ったカウンセリング技法について学んだり、事例研究を重ねる。

当時はどんどん不登校が増える時代。文部省が学校にカウンセラーを派遣することになる。教育センターの方から「区のカウンセリング人材が足りないから、相談員やらない?」とお声がかかる。

そして初代「心の教育相談員」として中学校でも働きはじめる。週一勤務だったので、電話相談員と兼任していた。

電話相談員時代、子どもの相談に必要な情報を得るため、小学校の同級生と連絡を取ることが数回あった。数年たった頃、彼が離婚して独り身になったことを知る。バツイチどうし、何となくつきあうようになる。

中学校の相談員として数年勤めていたが、結婚して地元に移ることになる。中学校時代の恩師が「今の相談員さんがやめるので困ってる。後任として働いてくれない?」と声がかかる。区の仕事をやめて、地元中学校の相談員になる。

一人目の子どもを出産しても相談員を続けていたが、二人目を妊娠。舅と姑に2人の子どもを任せるのもどうかと思った。そもそも、幼児教育と児童学を学んでいて、保育園で他人に育ててもらうなんてイヤだなあと思った。「退職して、子育てに専念しよう!」迷いが晴れてスッキリ退職。

ところが、公務員の夫がうつで仕事を失う!自分も大きな手術をした後で幼児二人をかかえ再就職はできない。ただ貯金をとりくずす日々。夫の失業期間は2年以上。不安な日々。

下の子どもが小学校に入るのを機に相談員に復帰。非常勤の公務員扱い。短時間勤務で、子どもが学校から帰る前に家にもどれる。その上、夏休みや冬休みなどは仕事がない。子どもと一緒にいられる仕事。仕事と家庭の両立ができるので、良い仕事だった。

夫は人の紹介で再就職できたものの、四十代を過ぎ、収入は以前の三割という低さ。「収入を補うためにキャリアコンサルタントの資格を私が取って、フルタイムの働き方をめざそう!」と考える。産業カウンセラー協会のキャリアコンサルタント資格を取得。

「キャリアコンサルタントの資格はとれたけど、どうしよう?」もんもんとすると、県の広報紙に「仕事の相談」の文字が!

「そうだ、この女性センターに相談しよう!」と電話で相談。話をきいてくれた相談員さんが「うちで働けるかも。一度きてごらん。」と言ってくださる。

県のキャリア相談は入札で決まったNPOのメンバーが行っていた。そのNPO代表の方に履歴書持参で面接を受け、NPOの一員とさせていただく。そして月に数回キャリアコンサルタントとして働くようになる。

NPOのメンバーと研修や勉強を重ねる。やがて国家資格キャリアコンサルタントの試験に合格。みんなで学んだからこそ得られた国家資格だった。

女性センター内でひとり親女性の支援相談も始める。シングルマザーの方々の相談にのる中で、その多忙さ、辛さ、大変さ、悩みの深さに詳しくなってゆく。

一方夫は失業時代に書いていたブログがきっかけで、少し収入を得られるようになる。やがて税務署に行かないといけないのでは?という金額に。

税務署で相談すると「個人事業主になって青色申告してください。」と言われる。夫は勤め人なので、私が名目上社長となる。この頃より夫の事業の経理をやらざるをえなくなる。だって、お金がないんだもの。何でも稼げることはやっていこう、子どもの教育費はこれからが本番。夫は40代後半だ。「いいおこづかいができたね。将来副業で仕事ができるかも。」夫はにっこり。私もにっこり。

やがて、夫の副業が本業を越えてゆく。もう両立は無理。夫の体がもたない。何より、今の少ない年収よりも未来を感じる副業を本業にしたい。税理士もいう。「これ以上稼いでも、所得税を取られるだけですよ。法人化しないと節税できませんよ。」

夫は会社をやめ、副業を法人化。ローンが払い終わっていたマンションを売り、50歳にして新たにローンを組み、店舗付き住宅を購入。

夫が社長、妻が役員。2人だけの小さい法人。

私の母がなげく。「あああ。公務員に勤めたと思っていたのにねえ。」

でも、父は母とは別の意見を持っていた。「でも、趣味が仕事になったんだから。男のロマンだよ。それに、男というのは、思ったよりも趣味にお金を使うものだよ。いい仕事かもしれない。」

私は大いに不満だった。せっかく家事と育児の合間に一日三時間かけて取った資格。運に恵まれ、人に恵まれて得られた仕事。全部捨てて、何の興味もない仕事につかないといけない。人に興味があるのにパソコンと経理だなんて。

人が大好きで営業で成果を上げていた人が、経理にまわされたような気分と言うかんじかな。だけど、家計の総収入をあげるためには仕方がない。

一緒に働いてみると、学校で沢山の子どもに囲まれ、多くの人と話をする仕事にくらべ、なんたる孤独。私の相手はパソコンで経理入力。業者との電話も宅配便の集荷くらい。さみしいったら、ありゃしない。

「あー、このまんま人生すぎたら死にそう!」

パソコンでネットサーフィンしていた時に目に飛び込んだのが「アートセラピー」という言葉。なんだろう。お試し体験いってみよう。

試しに行って驚いた。アートセラピーって、アートを使って無意識を受けとめて相談にいかす方法。自分はすでに体験済みだった。相談室でいくつかは使ってた。面白いと思うし、役立つと思ってた。これは絶対学びたい。申し込む。

学びは楽しかった。そもそも、同じ興味関心を持つ人々の集まりに行くことが自分に元気をくれた。いつか、アートセラピーを使ったカウンセリングをしようと思った。今はむずかしくても。だって人生100年時代だから!

そうはいっても、やることは多い。だけど、なんか楽しくて、やりがいのあることってないかな?

そうだ。学校で工作を教えよう!アートセラピーはカウンセリングにアートを使って子どもの気持ちを相談者と共有する方法。でも、アートアズセラピーといって、アート、ものづくりそのものが人の心を健やかにするのだ。

相談員時代、新しい学校に行くと、私は必ず昼休みは相談室をオープンにして、子どもの似顔絵を描いたり、子ども達と工作したりしていた。

どんな子どもも悩みはある。新しい相談員さん、どんなかな。お絵かきや工作は子どもにとって楽しい。楽しみながら新しい相談員がどんな人かを見てもらう手段だった。

「あ、この人、こわくない。いい人そう。」そう思ってもらわないと相談員はお役に立てない。相談室はあっても相談者がこなくては意味がない。

「あのとき、子どもたちと相談室で遊んだの楽しかったなあ。七夕やクリスマスの飾りを作ったり、おひな様を作ったり。そうだ!あれやろう!」

たまたまママ友が小学校のボランティアコーディネーターをしていた。学校に「子どもに昼休みに工作を教えるボランティア活動をしたいという方がいます。」そう学校に話をつなげてくれた。

ボランティア担当の先生は、きれいにメイクをしてステキなアクセサリーをしていた方。話を聞いて、こういった。「あら、楽しそう。子どもだったら、私がやりたいくらい。やってみましょ。」

月に1回、昼休み。多目的に使える畳の上に机があるスペースが使えることになった。

こうして、学校でアートを子どもたちと楽しむ活動がスタート。私はスクールアートセラピーだと思っている。ちょっと自分をゆるめて、楽しめる時間。家でも教室でもない、学校内に月一できるサードプレイス。

多いときは昼休みに100人の子どもが来たこともある。協力してくれるお母さんもいて、みんなニコニコ。来た時よりも帰るときは元気になっている。

ゆっくり、本当にスクールアートセラピーに相応しい活動を模索中。

やっと、自己紹介が現在においつきました!ここまで読んで下さった方、どうもありがとうございます。この活動の詳細については、今後少しずつ書いていこうと思います。

いつか、それを読んで、ちょっと絵を描くのが好きな方が、地元でやってみようかなと思ってくれたら嬉しいです。

百人の子どもがニコニコするのは、とっても楽しいよ!

私のミッションは「子どもの笑顔と日本の未来に貢献すること!」好きな絵本は「ルピナスさん」です。どうぞ、よろしくお願いします!


この記事を書いたのが、2022年4月20日。

そして、同年7月にはこんなことに・・・。

やれやれ。人生100年時代って、こういうことなのね(遠い目)
みんな、人生って変化の連続よ! 

追記した今は2022年12月5日。
今年の12月は一人で決算と棚おろしだ~(から元気)

なんとかなるかな?  
だけど社員ひとりだよ? 
がんばれ私!

 



 



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