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何者かになりたかった話

深夜、暗い部屋の中でアイロンをかけている。
リビングの灯りは全て消したが、隣り合ったキッチンの照明だけはつけているので、ほんのりと明るい。皺がしっかりと伸びたかはわからないが、小学校で使う上履き袋やナフキンのアイロン掛けなので、そこまで問題はない。一見して清潔感があればそれでいい。

隣り合った寝室では夫が寝息を立てている。今朝早くに家を出て仕事をしていたので、早くに眠気がきたよつだ。先程テレビを見ながらうたた寝をしたいた夫は、気持ちを奮い立たせてうたた寝をやめ、早くに布団に入ってすっかり寝入っている。

わたしは、小学生の子供の学用品にアイロン掛けをする母であり、夫のいる妻だ。俗にいう、「子持ちの主婦」という属性を持っている。子供を育てる苦労や主婦の置かれる状況にまつわる話題を見かければ、持論を展開できるくらいには、この属性に浸かっている。
どうやら世間の一部の人は子供がいるか、いないかで「主婦」を分けて考えたらしているらしいが、子供が育ってくれば、乳幼児の時のような目がまわる忙しさはないので、もしかしたら今は「主婦」だけの方がしっくりくるのかもしれない。
わたしがどこにカテゴライズられるのか、並べるのはわたしではなく世間との比較だと思っている。とりわけわたしは「そういうことはなんでもいいんだけど」という気持ちなので、アンケートの職業欄のどこへチェックをつけるかは気分次第だったりする。子育てに疲弊していても「会社員」、パートで働いているから「パート」、とはいえやっぱり「主婦」みたいな感じで気分に任せてやってきた。今なら、「主婦」か「無職」かもしかしたら「自営業」とも言えるかもしれない。

「わたしはいったい何者なのか。」なんてことはもう考えない。何者なのかはわたしが決めることじゃないし、わたしはわたしでしかない。

とはいえ、「何者かかになりたい」みたいな考えをしていた時期は長かった。具体的にいえば「表現者」になりたかったのだけれど、本当はそういうことではなくて、「他者に評価されたい」だったのだと思う。他者にカテゴライズされるような「何者か」になりたかったんだろう。

なぜ今考えないのか。諦めたのか、肩の力が抜けたのか。たぶん、両方だと思う。

子供を育てて、諦めることを学んだ。単純明快に、諦めざるを得ないことが多かった。しかしながら、そこには暗さよりも明るさと希望が多かったように思う。

当時はコース料理は食べにはいけなかったけれど、隠れて食べたチョコパイは美味しかった。久しぶりに飲んだワインは格別だった。時にはさめざめと泣いたこともあっだと思う、それでも希望が常にあった。諦めながら、どこかで諦めないで上を向いてきたから今があるのだと思っている。とはいえ我慢なんて少ない方がいいんだけど。

人生は可能性に満ちている。不可能はない。そう信じながら、何者にもなれずここまで生き抜いてきた、「ふつうの自分」を讃えたいと思うくらいには、肩の力は抜けている。

とはいえ、「他者からの評価」はやっぱり必要で、今、「無職」と評されたらやっぱり悲しいし、まだ夢も希望も捨てたくはない。もしかしたら、大それたことを目指すんじゃなくて、心の中に形のある希望を宿せるようになったのかもしれない。

とことん頑張れ、諦めるな、時には無理しろ、みたいことも時には必要だというのはもちろん分かっているけれど、肩の力を抜いて頑張れたら、それはそれで素敵だな、と思う。




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