見出し画像

本山派修験寺院妙覚寺の山伏間交流ー大徳院・福寿寺との関係を通じてー

筆者は、本山派先達修験寺院笹井観音堂の調査研究を行っている。近年は、配下寺院だった本山派修験寺院東林寺の動向も踏まえ霞支配を調査している。同寺住職東林寺教純が笹井観音堂・本山派先達修験寺院山本坊の配下山伏を教導したことは、横田稔氏の『大徳院日記』の翻刻・解題を参考に『埼玉史談』、noteでさらに深め投稿している。
大徳院周応が教純の弟子であり、山本坊筆頭正年行事職を務めたことから、山本坊役僧の本山派修験寺院福寿寺との交信は、周応・周乗父子の日記では頻繁に記述がある。
筆者は、最近、福寿寺のある埼玉県鳩山町小用をフィールドワークして境内地と大徳院父子と交流があった福寿寺暠憲の宝筐印塔を実見した。宝筐印塔は、暠憲の子宝寛が「門人の助力を受けて造立した」と刻み、参画者の門人達の名前が刻まれる。この宝筐印塔の記銘については摩耗して判読不能な部分があるため全部を翻刻できていないが山伏と人々の交流がわかる墓石でもあるため別稿を用意するつもりである。

福寿寺暠憲の宝筐印塔造立に参画した山伏について最近、触れる機会があった。この山伏は、大徳院とも関係があることが石造物から判明したので今回取り上げる。その山伏とは、埼玉県ときがわ町桃木の本山派修験寺院妙覚寺である。
本山派修験総本山聖護院所属の大先達瀧田顕浩氏・比企企業大学総長関根雅康氏に同行させていただき、妙覚寺末裔の西澤氏から妙覚寺の墓石と別当社桃木八幡神社に安置される宝筐印塔・筆塚の案内及び寺院の運営と系譜について貴重なご教示をいただいた。
改めて感謝申し上げる。

(1)本山派修験寺院妙覚寺の縁起と系譜

本山派修験寺院妙覚寺は、『新編武蔵風土記稿』によると「八幡社
妙覺郷八ヶ村の鎮守とす、神體木の立像にて、聖徳太子の御作と云、社傳の書に、當社は延暦二十四年の勧請なり、其後遥に星霜を經て建久四年右大将賴朝社領若干を寄附せしめ祈願所となせりと、其頃は末社九十餘宇ありて、頗る繁榮せしが、天正十八年八月丙丁の災に罹りて、社領ことごとく焼失す、其後寛永二年再び造營せしと云、此書は近き頃記せしものにて信じ難けれど、社地のさまなど古き鎮座なるべく見ゆ、本社の乾の方に僅なる池あり、御手洗とす、此水いかなる旱にも涸ることなしと云、
別當妙覺寺
もとは明王院と號せり本山修験、入間郡西戸邑山本坊配下、林水山宮本坊と號す、本尊不動は智證大師の作、長七寸許、開山廣山盛阿法印は、弘仁三年八月十三日寂す、開山より文明頃まで、十三世の僧名を記せしものあれど考證とすべきことなし、此邊の郷名を妙覺と唱ふるは、當寺より起りし由寺僧は云へど、此寺もとは明王院と號せしを、近頃妙覺と改めしことなれば、此寺かへりて郷名の字をとりしこと知べし、境内に陶物の薬師あり、小なる石の龕に安ず其傍に椋の大木あり、地上より二尺許上に、口の徑二寸程なる穴あり、其中に冷水涌出す、眼を患ふる者此水をもて洗ふ時は、必驗ありと云、
寶物愛染像一軀。春日の作と云、長二寸許、右大将賴朝の寄附せし由、云傳ふれど信じがたし。
鐘樓。延寶六年鑄造の鐘なり、
地蔵堂蹟。何の頃廢せしや詳ならず、本尊は長一尺許、行基の作と云、今本堂に置り、」とある。

妙覚寺は、山号は林水山、寺号は妙覚寺、坊号は宮本坊、院号は明王院を称した山本坊配下寺院なのがわかる。
福寿寺が所蔵した山本坊の霞内における法度「山本坊末寺議定書」(文化13年(1816)付け)「山本坊焼香規定」(天保10年(1839)付け)では「桃木村 妙覚寺」と署名している。明和6年(1769)付けの「山本坊配下・年行事・同行覚」では、坂戸市森戸の正年行事職大徳院の組下にあり「比企郡 桃木村 明王院」とあり、院号で記述される。
今回の調査で、坊号と院号両免許を受けた妙覚寺は、寺号を通称として用いたのが石造物で確認できた。
西澤家墓地では、5名の山伏と妻の墓石が所在する。住職名の部分が滅失した「傳燈三僧祇大阿闍梨」と記銘された自然石の墓石が2基、妙覚寺俊響・妙覚寺孝山・妙覚寺義全の各墓石の計5基が所在する。寺紋は、山本坊・大徳院と同様の九曜紋であった。
俊響は、桃木八幡神社に安置される宝筐印塔を寛政9年(1797)に造立したのが記銘からわかる。
宝筐印塔は、近隣の村々からの助力によって造立されたもので妙覚寺の旦那場であっと言えよう。
西澤氏から「宝筐印塔は家の庭から出土したもの」とご教示を受け、さらに残片の出土によって近年、多くの人の支援によって復元を果たしたのが宝筐印塔の解説石版でわかる。


妙覚寺俊響造立の宝筐印塔
妙覚寺俊響が造立したと刻む宝筐印塔の記銘
法印盛山峻響の墓石(妙覚寺俊響)享和元年(1801)死去


妙覚寺孝山は、「三僧祇孝山法印霊」とあり聖護院から「三僧祇」・「法印」免許を受給したのがわかる。全体的に摩耗が激しいので没年は読み取りができなかった。孝山妻の墓石も同様で戒名が現状読み取れなかったが、墓石左側面に「孝子圭遵」の記銘がある。孝山夫妻の子が妙覚寺圭遵であるのが確認できる。
西澤氏からは「孝山・圭遵・義全が寺子屋を運営していた」とご教示いただいた。寺子屋での指導科目を筆者が尋ねたところ「『庭訓往来』を教えていた」とご教示いただいた。さらに「伊勢物語・源氏物語の写本を持っていた」ともご教示を受けた。
文化遺産オンラインによると「『庭訓往来』は、南北朝時代に撰述された往来物である。武士らの子弟を対象としたもので、一年各月にわたって往復した手紙を集めた形式で編纂されている。手紙を通して日常生活に必要な用語や一般常識を教え、基礎教育書あるいは手習書として広く用いられ、往来物を代表するものである」という。
読み書きや一般常識を妙覚寺の寺子屋では、弟子に教授したと言える。


三僧祇孝山法印(妙覚寺孝山)の墓石

孝山の子圭遵の墓石は、確認できなかった。圭遵は、桃木八幡神社に筆塚がある。翻刻文を西澤氏から頂戴した。

妙覚寺圭遵の筆塚

圭遵の筆塚は妙覚寺の系譜及び人脈を辿る上で重要情報が刻まれるので特に抜き出して検討する。筆塚は、子の義全が明治14年(1881)に圭遵の好学ぶりと寺子屋の盛況ぶりを顕彰して造立したものである。
圭遵は、幼名は養好、純和を号して父の諱が晃寛、母親は戸口氏の出身とある。圭遵の父親の諱が登場したので法名は孝山と改めて記述しておく。
圭遵は、文化5年(1808)3月5日生まれで、明治9年(1876)3月27日に69歳で病死したとある。聖護院からは「権大僧都」・「法印」の免許を受給したと刻まれる。
圭遵は、桃木村隣接の田中村に在住する書家柿沼素喬から書法を学び、成長してから森戸村の法眼大徳一如より宗教を学び、天保2年(1831)に金峯山、嘉永2年(1849)に葛城山で奥駈修行をしたとある。
柿沼素喬の筆塚も圭遵の筆塚の横に所在する。
以上が、圭遵筆塚の要約である。

(2)大徳院周応と妙覚寺圭遵の師弟関係

大徳院周応の墓石(傳燈一如法眼墓)

圭遵の筆塚で注目したいのが「森戸村の法眼大徳一如」の記述である。
大徳一如とは大徳院周応の「字」である。周応の墓石も「一如法眼」と記銘される。
圭遵の筆塚から直属の上官大徳院周応の弟子なのが確認できた。周応・周乗父子の日記でも妙覚寺での法会、所用、季節の挨拶に周応・周乗父子が訪問した記述がある。

天保12年(1841)2月8日の大徳院周乗の「九梅堂日記」では、妙覚寺で祖師会の執行があるため浄覚院泰純・福寿寺孝憲(暠憲)を一同に集結を掛けなくてはならず、泰純・暠憲・持宝院了慶へ出仕依頼をしたと記述している。

また、天保14年(1843)1月11日の周乗の日記では、上官山本坊徳栄の元に年始の挨拶に行った記述がある。同行者は周乗、理音院永亮・小用左中(後の福寿寺宝寛)・建剛寺頼栄・妙覚寺慶順(圭遵)・福寿寺孝憲(暠憲、宝寛の父)であった。

天保12年の妙覚寺での祖師会に出仕した浄覚院泰純は、同年3月15日に大徳院周応が自院で護摩を修したときに導師を務めた。周乗は泰純を「導師ハ周応の高弟浄覚院泰純也」と記述している。泰純は周応の弟子であったのが確認できる。
浄覚院については、note投稿の「修験寺院同士の交流についてー大徳院周応の死去と葬儀執行に関連してー」でも触れているので参照されたい。周応の師弟関係をまとめると周乗・泰純の兄弟弟子が圭遵であるのが確認できる。
福寿寺暠憲・宝寛父子と妙覚寺との交流は後述する。
圭遵と同行した建剛寺頼栄は、桃木村隣接の田中村にいた山伏である。

天保15年(1844)の周乗の日記では、10月20日・25日・11月4日に「十界沙」の連続講義を周応が実施したと記述する。参加した山伏に周応弟子の妙覚寺圭遵・浄覚院泰純がいる。他にも建剛寺頼栄・福寿寺暠憲・左中父子・吉祥院(鳩山町今宿)が参加した。

以上のように妙覚寺圭遵は、筆塚の記銘から大徳院周応の弟子であり、兄弟弟子の浄覚院泰純・周応の子周乗と交流したのがわかる。学問や宗教行事を通じて今宮坊配下の山伏でありながら、他地域の山本坊配下山伏とも積極的に交流したのが大徳院側の「九梅堂日記」でも確認できた。

さらに、西澤氏からは、多武峰(ときがわ町椚平)に在住し山本坊配下寺院で正年行事職を務めた「慈眼坊と妙覚寺は縁戚で慈眼坊の武藤家は親戚だからとしてよく家に来た。系図では「慈眼坊女」とある」とご教示を得た。
多武峰は妙覚寺のある桃木村に隣接する地区である。建剛寺に加えて山本坊執行部に位置する慈眼坊との縁戚、役僧を務めた福寿寺との交流によって共存と寺院発展を図ったのがわかる。

(3)福寿寺暠憲と妙覚寺義全の師弟関係

妙覚寺圭遵は子の義全が造立した筆塚の記銘と大徳院周乗の日記で大徳院周応の弟子であったのが双方の史料から確認できた。
山本坊役僧福寿寺とは圭遵が住職期から交流があったのが「九梅堂日記」でわかる。
義全が住職に就任後も交流が続いたとわかるのが福寿寺暠憲の宝筐印塔である。周乗の日記では「孝憲」と記述するが、同人の宝筐印塔では「暠憲」と刻まれ、福寿寺所蔵の免許状でも「暠憲」とあるのでこちらが正しい法名となる。


福寿寺境内地にある福寿寺暠憲の宝筐印塔



「権律師法橋暠憲」と記銘される宝筐印塔
吉祥院脩福(今宿村)・金住院廣傳(腰越村)・妙覚寺義全(桃木村)が暠憲の宝筐印塔造立に関わった

上記3点が福寿寺宝寛が門人から支援を受けて造立した父暠憲の宝筐印塔である。
一番下の写真左端に「桃木 妙覺寺義全」と記銘される。今宿(鳩山町今宿)在住の吉祥院脩福は、「九梅堂日記」に登場した本山派修験寺院吉祥院住職である。
寺子屋を運営した義全は、父圭遵と交流した暠憲に弟子入りしたのがわかる物証となる。
義全は、「九梅堂日記」に登場しないが圭遵に同行して大徳院を始め父親と共に繋がりがある山本坊配下山伏と交流したと見られる。大徳院・福寿寺・妙覚寺との交流が義全の暠憲への入門に繋がったと言える。

福寿寺と妙覚寺との交流は、学問交流および師弟関係構築にとどまらない。義全の妻は福寿寺所在地の小用にいた「小用鋳物師」松本家の出身なのが義全夫妻の墓石から確認できた。
福寿寺周辺は、小用鋳物師の松本家・清水家・宮崎家が在住しており地理的に見て福寿寺の有力旦那であったと見られる。

妙覚寺義全・幾與夫妻の墓石

義全の墓石記銘から父圭遵と暠憲の交流によって義全と松本幾與の婚姻関係が成立し暠憲が仲人を務めたのは想定できる。
福寿寺と妙覚寺の関係は、学問分野にとどまらず、寺院の進退まで関与が認められ、福寿寺の有力旦那である松本家との縁談は、妙覚寺の寺歴・慈眼坊との縁戚関係よって寺院の運営基盤が確立されていた証明にもなりえると指摘しておきたい。

おわりに

今回は、フィールドワークで得た本山派修験寺院妙覚寺の系譜と動向を追った。現地での末裔の西澤氏からのご教示を基礎に検討を進めた。大徳院周応・周乗父子の日記からも妙覚寺と大徳院の関係は認められるが圭遵の筆塚の存在によって具体的関係が明らかにできた。
また、福寿寺暠憲の宝筐印塔で義全が暠憲弟子だと確認できたが、地縁面と山伏間交流は「九梅堂日記」・義全の墓石記銘で補完された。いずれもフィールドワークをして到達できた内容である。
福寿寺暠憲の系譜と動向、宝筐印塔については別稿を用意するつもりである。
妙覚寺の人脈と組織運営は地縁と大徳院と縁がある山伏との交流によって確立されたと確認しておきたい。

いいなと思ったら応援しよう!

添野彬裕
いただいたサポートは取材、資料購入費用に当てます。