添野彬裕

研究テーマは、①鉢形城主北条氏邦②武蔵国衆藤田氏・三田氏③本山派修験寺院笹井観音堂です…

添野彬裕

研究テーマは、①鉢形城主北条氏邦②武蔵国衆藤田氏・三田氏③本山派修験寺院笹井観音堂です。 最近は、笹井観音堂の研究をしています。笹井観音堂の運営・支配を配下山伏の動向も踏まえての調査で関係確立・浸透の過程を明らかにすることがミッションです。

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講演会開催のお知らせ

来月10月13日(日)、岐阜県郡上市主催の「白山文化ゼミナール」で講演します。 テーマは「山伏の加持祈祷と医療製薬」です。 noteで以前投稿したのを読んでいただきオファーが来ました。 原稿は既に送付済みで当日楽しみです。御縁があればよろしくお願いいたします。

    • 修験寺院の祭祀執行事例の紹介

      はじめに現代において地域の祭りは一大イベントである。寺院、神社が主催元になっているのも多く賑わいを見せる。 地域の祭り執行は、疫病退散・五穀豊穣・商売繁盛・家内安全などの祈願目的もあり、山伏が導師を務めた事例もある。祭りにおける歌舞音曲は、祓いの意味がある。加えて、修験寺院において俳句・詩歌の会が開かれたのも娯楽に加えて宗教行為の意味合いが強かった。 本稿では、修験寺院調査で得られた山伏が導師を務めた祭祀事例を紹介するのをテーマとする。 (1)修験寺院の祭祀執行筆者が修験寺

      • 「白山文化ゼミナール(郡上学)」講演会講演概要

        お礼と修験寺院調査の手法令和6年10月13日に岐阜県郡上市の白鳥ふれあい創造館にて「山伏の加持祈祷医療製薬の関係」を講演しました。 白鳥ふれあい創造館の鈴木雅士様には、2日間に渡り対応いただき感謝して改めてお礼申し上げます。 会場の聴講者の39名の方にも足を運んでくださりお礼申し上げます。 講演会の概要をnoteで告知したのもあるので報告します。 フィールドワーク・史料実見・末裔の方々への取材を元に先行研究も入れての講演でしたので史料保存と開示は当たり前ではないと改めて自覚

        • 修験寺院同士の交流についてー大徳院周応の死去と葬儀執行に関連してー

          はじめに地域の修験寺院を考察する際、寺院運営と並び他寺院の住職との関係も考慮に加えれば寺院運営、山伏の活動が鮮明になってくる。特に、住職名がわかる史料、住職の墓石などは相互関係を明らかにする上で重宝する。今回は、本山派修験寺院東林寺の調査で触れることが多い本山派修験寺院大徳院の史料から山伏同士の関係、住職名を比定できるものを見つけた。この史料は宇高良哲編『武蔵越生山本坊文書』で収録されている。大徳院は、血縁、地縁、法縁から山伏同士の関係を検討するのに良質な史料を有しており、本

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        講演会開催のお知らせ

          本山派修験寺院竜蔵院の系譜の検討ー大宮寺衍純の日記からの考察ー

          はじめに地域の修験寺院の調査は、フィールドワークこそが根本だと筆者は思う。墓石、聞き取りなどで文書だけは追えない情報、新発見の史料が多いからだ。修験寺院は、自治体史で充実している場合、別途編纂などで基本情報を揃えて紹介することもある。 筆者は本山派先達修験寺院笹井観音堂の寺院運営・霞支配を研究しているが、近年は配下寺院の方から主従関係の浸透、霞支配の実態に迫っている。具体的には所沢市糀谷の竜蔵院・狭山市下奥富の東林寺・日高市高萩の高萩院である。 竜蔵院は、『所沢市史社寺』で文

          本山派修験寺院竜蔵院の系譜の検討ー大宮寺衍純の日記からの考察ー

          本山派修験寺院東林寺についての若干の補足

          はじめに筆者は、以前、『埼玉史談』で「東林寺教純の系譜と動向」を寄稿した。東林寺教純は、埼玉県狭山市下奥富に所在した本山派修験寺院東林寺の住職である。 同市笹井に所在の本山派先達修験寺院笹井観音堂の配下山伏として教養・技能を活かし笹井観音堂、山本坊の配下山伏を教導した人物であった。 教純は、笹井観音堂の配下にあって正年行事職、役僧と役位には就いていないが顧問的な地位と位置づけられる。 本稿では、狭山市立博物館の企画展「修験の世界ー笹井観音堂とその配下ー」で関係が指摘された真言

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          本山派修験寺院東林寺についての若干の補足

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          本山派修験寺院宝泉寺の動向と境内地の景観

          はじめに本山派修験寺院宝泉寺は、埼玉県狭山市入曽に所在した。現在は別当を務めた野々宮神社が鎮座して住職だった宮崎家が神職を務める。 宝泉寺は、狭山市笹井の本山派先達修験寺院笹井観音堂の配下寺院であった。 配下寺院から上官寺院を検討することで霞支配の様相をうかがえることもある。 筆者は『埼玉史談』で同じ配下寺院で狭山市下奥富に所在した本山派修験寺院東林寺住職東林寺教純の系譜と動向を検討しながらも笹井観音堂における位置づけを試みた。 自治体史では、笹井観音堂配下寺院の史料・所蔵物

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          本山派修験寺院宝泉寺の動向と境内地の景観

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          本山派修験寺院宝積坊の戦国期の動向ー宝積坊幸鑁と「上田家文書」の宛名比定への試みー

          はじめに埼玉県美里町白石の本山派修験寺院宝積坊については、私は、noteで霞支配、領主との関係面で何度か取り扱っている。 先日、埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される「鉢形城主北条氏邦」の企画展へ行ってきた。 注目展示品は埼玉県小鹿野町両神薄に所在する法養寺薬師堂十二神将像と月光菩薩・日光菩薩の修復後の姿である。 法養寺薬師堂十二神将は、鉢形城主北条氏邦が鉢形領被官と共に奉納したもので領国支配を検討する上で、欠かせない仏像となる。 近年、十二神将の墨書から氏邦の生年が明らかに

          本山派修験寺院宝積坊の戦国期の動向ー宝積坊幸鑁と「上田家文書」の宛名比定への試みー

          本山派先達修験寺院十玉坊の再興に伴う霞範囲の検討ー笹井観音堂の動向も踏まえてー

          はじめに 前回の投稿「昔話から見た修験寺院」で本山派先達修験寺院十玉坊の廃絶と復興について先行研究・史料に沿って記述した。 北条氏照書状と聖護院門跡御教書を合わせると十玉坊は再興にあたり聖護院門跡から2通、氏照から1通の霞安堵状を受給したのがわかる。その内、聖護院門跡御教書は1点が伝わる。 今回は、2点の史料を基礎としながらも十玉坊と霞間抗争を繰り広げた本山派先達修験寺院笹井観音堂の文書「篠井家文書」も加味しながら十玉坊の霞展開と笹井観音堂の動向を検討して当時の霞範囲を復元

          本山派先達修験寺院十玉坊の再興に伴う霞範囲の検討ー笹井観音堂の動向も踏まえてー

          昔話から見る修験寺院ー本山派先達修験寺院十玉坊の境内地移転との関連ー

          はじめに 山伏は昔話でよく登場する。人々との交流、専業である加持祈祷、または悪役で主役を務めることもある。 私が調査対象とする埼玉県狭山市笹井の本山派先達修験寺院笹井観音堂の「霞」地域、配下寺院でも関連する昔話は複数存在する。 具体的には、1つの主題として過去に投稿した狭山市広瀬の影隠地蔵は本山派修験寺院正覚院が管理した。同市入曽の本山派修験寺院宝泉寺では疱瘡、虫歯治療に関連する話が伝わる。そして笹井観音堂には在地の殿様が笹井観音堂門前を通行する際に下馬しなければならず、面

          昔話から見る修験寺院ー本山派先達修験寺院十玉坊の境内地移転との関連ー

          『埼玉史談』に論文掲載されました

          いつも、投稿に関心を寄せていただきありがとうございます。このたび『埼玉史談』に私の論文が掲載されました。 題名は『東林寺教純の系譜と動向』です。投稿でも東林寺は何度か触れています。論文では投稿で触れてない住職の系譜を検討しました。また、免許状、蔵書の現物写真を掲載しています。 修験に関心がある方は購入いただけると嬉しいです。お求めは、まつやま書房までお願いいたします。 引き続きよろしくお願いいたします。

          『埼玉史談』に論文掲載されました

          修験寺院の師弟関係について

          はじめに 本山派先達修験寺院笹井観音堂の研究を継続している。寺院運営と年行事職としての霞支配が主たるテーマであるが、運営は宗教活動を基礎として経済・文芸などの多方面に参画することで旦那衆との関係深化、財政基盤を整備していった「里修験」的活動が史料に残る。 霞支配に関しては、笹井観音堂を頂点とした上流部分だけでは史料上の制約から把握は困難である。むしろ、「同行」と称される配下寺院の動向からアプローチするのが断片的ながらも実態を把握できるのがわかった。これは筆者のフィールドワーク

          修験寺院の師弟関係について

          狭山市柏原所在の影隠地蔵についてー源義高伝説と本山派修験寺院正覚院との関係ー

          はじめに埼玉県狭山市柏原の奥州道交差点には、「影隠地蔵」が人と自動車を見守るかのように所在している。この地蔵は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した木曾義仲の子義高の伝説がある。 伝説は、義仲から人質として鎌倉の源頼朝の元へ送られた義高が父と頼朝の抗争によって処刑から逃れるために鎌倉から逃亡を図った。途中、鎌倉の追捕をかわすため地蔵の裏に隠れたところ、義高の影を消したため一旦は回避できた内容である。最終的に追っ手に捕縛され、入間川の畔で斬られてしまった。義高を供養す

          狭山市柏原所在の影隠地蔵についてー源義高伝説と本山派修験寺院正覚院との関係ー

          戦国期における領主と山伏の関係構築ー加持祈祷の事例からー

          自分がnoteに投稿したタイトルを見たところ本山派修験寺院における免許状申請から上官寺院への認証までの流れから主従関係の考察、由緒書・寺院運営の構成など具体的事例を挙げながらも抽象的な話になっていた。 今回は、現在、調査を開始しようと考えている本山派先達修験寺院玉林坊の文書をベースに戦国大名と山伏の関係についての第2弾を書いていく。 過去の投稿では戦国大名による山伏動員の実像を検討してステレオタイプではなく史料に即したことを記述した。 本投稿における主題は山伏の基本実務の加持

          戦国期における領主と山伏の関係構築ー加持祈祷の事例からー

          本山派修験寺院の霞支配と運営についてー由緒書・配下一覧から見えるものー

          前回、本山派修験寺院の例を挙げて各種免許状の取得過程及び上官寺院による認証の流れを書いた。 免許状は、住職の地位を示すもので聖護院から許可を得て初めて効力が発生した。例外として関東一円の修験寺院を統括する幸手不動院は、配下寺院を免許状を発給していたが、基本は上洛によって受給した。本山派の組織間における秩序維持と浸透に免許状の発給が役割を果たしていた。 江戸期に入ると聖護院に加え、寺社奉行が執行した毎年の宗門改においても寺院の由緒書、住職の保有免許・役位(役僧、正または准年行

          本山派修験寺院の霞支配と運営についてー由緒書・配下一覧から見えるものー

          修験寺院の呼称について2ー坊号・院号免許の区別ー

          本稿は、修験寺院の呼称について、再度、整理・検討するものである。最近、企画展・SNSで修験寺院の呼称について区別が明確でない記述が散見された。 本山派の例を今回も取り扱う。本山派なら総本山聖護院から修験寺院の坊号・院号を始め、役職・僧位・法印・各種装備品・装束の着用免許を得ることで称する、身に着けることができる。以前、noteで「修験寺院の通称・呼称について」の投稿において記述した。そして、各種免許状は、世襲されず継承者は都度、上洛して聖護院から受給したのも述べた。 今回は

          修験寺院の呼称について2ー坊号・院号免許の区別ー