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読書メモ・頭木弘樹『口の立つやつが勝つってことでいいのか』(青土社、2024年)【その2】

前回の続き。

「『感謝がたりない』は、なぜこわいのか?」の章も、なかなか味わい深い。
人は誰かのために何かをしてあげたときに、「感謝」を求めがちだ。最初は見返りを求めなくても、相手がそれを当然のように、何の感謝もせずに受け取ることが続いたら、さすがに不愉快になる、という人も多いだろう。知らず知らずに感謝や見返りを求めようとすることで、最初の親切心はそれとは真逆の不愉快な気分に変貌する恐れがある。そうならないようにするにはどうしたらよいか?
宮古島に移住した頭木さんは、他人に親切にしてもらってもいちいちお礼を言わないという反応が多いことを目の当たりにする。考えてみれば「親切にする」というのは「お互いさま」の話で、だからこそお礼を言う必要はない。お礼を言うことで生まれる「人の世話になるのは申し訳ない」という精神的な負担を感じなくてすむ。相手が恐縮しない分、かえってどんどん親切にできる。そういう好循環が成り立ちうるのだ。頭木さんは「親切にするのがあたりまえで、お礼を言うこともなく、お礼を言われたいと思うこともないほうが、はるかに美しく、なにより気持ちいい」(94頁)と述べている。社会的合意が必要であるにせよ、この逆説的な思考の転換が、私の目を開かせてくれる。
これに関連して、別の章ではカート・ヴォネガットの小説に出てくる言葉を引用している。
「あなたがもし諍いを起こしたときは、おたがいにこういってほしい。『どうかー愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに』
人を愛するということはなかなか難しいが、人に親切にすることは、それよりも簡単なことだ。頭木さんは「愛してくれなんてずうずうしいことを願う気持ちはないが、親切にしてほしいと、すごく思う」(113頁)と述べている。難病を体験した頭木さんは、誰よりも親切のありがたみを感じていたのである。

「違和感を抱いている人に聞け!」の章も、なるほどと思わせる。頭木さんは「何かについて聞くなら、そのことに違和感を抱いている人に聞くのがいいのかもしれない」〈139頁〉と述べている。社会について聞くなら、社会的成功者ではなく社会に違和感を抱いている人に聞く、人生について聞くなら、人生がうまくいっている人ではなく、人生に違和感を抱きながら、それでもなんとか生きている人に聞く、等々。
それで思い出したのが、スポーツのことである。私が信頼しているアスリートとは、スポーツの価値を全肯定しているアスリートよりも、むしろいまのスポーツのあり方について違和感を抱いているアスリート(あるいは元アスリート)の方である。元ラグビー日本代表の平尾剛さんとか、元オリンピック柔道選手の山口香さんなど。違和感を抱くというのは、対象を俯瞰で見ているというばかりではなく、そこにたゆまぬ思索が存在しているということを意味する。簡単にいえば思考停止していないことの証左なのである。少なくとも私はそうありたい。

ほかにも、「本との本当の出会いは、読んだときではなく、その本を思い出す体験をしたときなのかもしれない」(176頁)という頭木さんの言葉にも痺れる。いま私がこのnoteに書いていることはまさにそういうことで、かつての読書体験を思い出し、出会いなおす作業をしているにほかならないのだ。

まだ語るべきことがあるかもしれないが、予定していた字数をオーバーしたので、この辺で。



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