回想4・菊地信義『装幀余話』(作品社、2023年)より

まだ大学院生だった1996年、大学院の先輩が登壇したシンポジウムの内容が「史学会シンポジウム叢書」(山川出版社)の1冊として刊行され、その中に先輩の論文が収録された。その先輩は、自分の論文が活字化されたことよりも、「装幀が菊地信義さんなんだよ。そこに自分の論文が載っているということの方が自慢だ」と言っていた。「菊地信義さん?」「知らないの?山口百恵の『蒼い時』を装幀した人だよ」。山口百恵の『蒼い時』ならばずいぶん前に読んだことがある。あの本の装幀が菊地信義さんだったのか…。(久しぶりにまた読んでみたくなってきた)。
それから10年以上経った2008年、私も「史学会シンポジウム叢書」の1冊に原稿を寄せる機会があった。できあがった本の装幀は、やはり菊地信義さんだった。よし、これで俺も仲間入りだ、と嬉しくなった。仲間入りというのもおかしな話だが、「俺は菊地信義さんが装幀した本に文章を書いたことがあるんだぜ」という自慢ができる、という意味での仲間入りだった。
話は変わる。それから7年ほど経った2015年、同業の研究者のMさんが急死し、勤務先の大学の研究室や自宅に大量の蔵書が残されてしまったのだが、Mさんのご友人の方から、
「あなたに蔵書の一部を引き取ってほしい」
と言われた。しかし私は、Mさんとは1回しかお会いしたことがない。私などよりももっと近い関係にいた研究者は多かったはずだ。
「蔵書の中に、韓国で購入した本が大量に含まれているんですよ。しかしハングルで書いてあるのでその研究的価値は僕らにはわからない。そこで、あなたにお願いしたいのです。これは価値があるという本を、遠慮なく引き取ってください」
私が韓国に留学した経験があるということで、目利きをしてもらいたいということなのだろう。
私はMさんの研究室とご自宅を訪れて驚いた。膨大な蔵書数であることもさることながら、韓国で購入した研究書は、どれもツボを押さえた素晴らしいコレクションだった。この方面の研究がしたい、という私の願望を満足させる本ばかりが揃っていた。
「お父さんは韓国語ができたのですか?」
と娘さんに聞くと、
「いいえ、全然」
と答えた。どうやってこれらの本の情報をつかんだのだろう。Mさんこそが目利きである。
Mさんは博覧強記な方で、学界ではどちらかといえば異端者だった。一度だけお会いしたというのは、小さな研究会でのことだった。初対面だったのでご挨拶に行くと、
「前からあなたにお会いしたいと思っていましたよ」
と言われた。その研究会の席で、Mさんは何も見ずに、古今東西の事例をひきながら、滔々と発言された。私はそのお話に、すっかり引き込まれてしまった。そのことを思い出し、蔵書を引き継ぐということは、Mさんの学風の一部を引き継ぐということかもしれないと腹を括った。たった1度しかお会いしたことがないのにもかかわらず、である。
引き取った蔵書のほとんどが韓国関係の本だったが、本棚にあったある本に目がとまった。菊地信義さんの著書である。
「この本も引き取っていいですか?」
「どうぞ」
Mさんもまた、菊地信義さんのファンだったのだな。ひょっとしたら、私のいる業界には菊地信義さん推しの人が多かったのかもしれない。多くの人がその装幀に憧れた菊地信義さんがこの世を去ったのは、2022年3月のことである。

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