回想・文体の原点(後編)
(前回のあらすじ)
数年前に高校時代の唯一の親友である小林からもらったメールには、川上未映子にはじまり、村上春樹、工藤直子と続き、最後は松本大洋の漫画で終わるという「めくるめく読書エッセイ」が語られていた。そしてそこからさらに、吉田健一に話が及んだ。
ひとまず入手したのは、『交遊録』(講談社学芸文庫)である。書き出しは、こうである。
「人間も六十を過ぎるとその年月の間に得たもの、失ったもののことを思うだけでも過去を振り返り、自分の廻りを見廻すのが一つの自然な営みになり、これは記憶も現在の意識も既に否定も反撥も許されなくなったもので満たされていることであってその中でも大きな場所を占めているのが友達である」
うーむ。たしかに一文が長い。もう少し読んでみよう。
「今まで生きて来た年数を又生きることは考えられなくて、それは少しも構わないことであるが現在までに恩を受け、或は世話になり、そして他にどうということが別になかったのでも友達がいるということの喜びを覚えさせてくれた友達を自分が生きて行くに従って失うことになるのを免れないのはその度毎に自分が死ぬようなものである一方、年とともに新たに友達が出来ることも事実であって更に自分と違って友達というのが生死を越えて存在するものとも考えられる時に友達は生きて行くうちに殖えるばかりであるという感じにもなる。併し友達が自分と違ってというのは自分が死ねば友達の記憶も含めて自分の立場からする凡てが終るからであり、その記憶を残して書きたければ書き留める他ない。それ位のことをすることに友達というものは価するはずである。今これまでの半生か何かを振り返ると、頭に浮ぶ友達の多くは既に死んでいて生死を越えての存在と言ってもこれはともに酒を酌むこともその笑顔が見たくて可笑しな話をすることもなくて打ち過ぎたということを変えるものではなくて友達甲斐がないことになっても仕方がない。そして生きていて現に生きる喜びを教えてくれる友達も何れはこっちが死ぬということがある。その友達のことを書くならばこれも今のうちである」
うーむ。クドい。だが実に含蓄のある内容である。次の文章も味わい深い。
「日本がそれ程特殊な国である訳がない。もし日本の桜が美しいならばそれは美しいのであってそれが日本にしかないものであってもその為にこれが日本の人間にだけ理解出来る美しさなのでもなければその人間がフランスに渡って夕靄が掛った田舎の並木道に何も感じないでいることにもならない。併し日本の春の桜とフランスの秋の夕靄が掛った田舎の並木道は確かに違っている。そして同じく土佐の海岸から眺める太平洋と汽車が新潟辺りを出て窓の外に拡る日本海の色も眼に見えて違っている。又確かに外国に行けばそこの風俗を身につけることを心掛けなければならないがそれはその風俗が違っているからで、どう違っているかと言えばただ違っているのである。それだけですむことであるのは一つには人間の精神には際限なく変化に対応する働きがあるからであり、これに加えてどこへ行っても人間の精神は人間のものであるということがある。こういうことは自分の体、精神に聞いてみれば一番よく解る」
このクドい文章の中に、この国が何年も前から社会全体をあげてキャンペーンをはっている異常な風潮をあざ嗤うような真理が述べられているではないか。クドい文体の中に主張を忍び込ませる手法こそが、この人の文章の真骨頂である。
たまに小林に会うと、高校時代の思い出話もそこそこに、こんな話になる。だから友人として長続きしているのだろう。