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妄想・1960年代前半の黒澤映画

1950年代の黒澤映画には、「七人の侍」「隠し砦の三悪人」などの娯楽活劇の大作があるが、1960年代前半の黒澤映画は、それまでとは趣を異にする。小粒だが、極上の娯楽映画を作り上げるのである。
とくに、黒澤映画で大ヒットしたのは、次の3作品である。
「用心棒」(1961年)
「椿三十郎」(1962年)
「天国と地獄」(1963年)
この3作品に共通する特徴は何か?すごい共通点を発見した。
それは、「策士の映画」ということである!
「用心棒」は、2つのやくざ勢力が対立する上州の宿場町に現れた流離の浪人、桑畑三十郎(三船敏郎)が、対立する両方の勢力に自分を用心棒として売り込みつつ、巧みに相討ちを仕組んでいく、というストーリーである。
「椿三十郎」は、とある藩の内部に起こった権力闘争。藩を乗っ取ろうとする大目付の不正を暴くため、藩の若武者たちが、ふとしたことで知り合った素浪人、椿三十郎(三船敏郎)とともに、大目付一派の悪事と戦っていく。
両者に共通するのは、三船敏郎演じる浪人の、策士ぶりである。もちろん敵方も、策を弄するのだが、敵方は「策士、策に溺れる」存在として描かれている。
「用心棒」「椿三十郎」は、たんなるアクション時代劇ではない。知力が重要な要素となっているのである。
「策を弄することの愚かさと痛快さ」が、この2つの映画の本質なのだ。
では、「天国と地獄」はどうか。
後半の、犯人を追い詰める場面に、仲代達矢演じる刑事の「策士ぶり」が、存分にあらわれているではないか。
知恵を使って、犯人を追い詰める。
そこに我々は、痛快さを見いだすのである。
この3作品で存分に発揮されている「策士性」(こんな言葉あるのか?)こそが、これらの映画を痛快たらしめているのである。
黒澤明は、意識して、これらの娯楽映画に「策士性」という要素を取り入れたのではないだろうか。
それはこの時期、黒澤明がこの点に執着していたことを意味するのだろう。
現実世界を見たまえ。
どこの世界も、権力闘争に明け暮れ、策士たちが策を弄しているではないか。ときにそれは、愚かでもあり、可笑しくもある。
当時50代に入ったばかりの黒澤明は、そんな現実世界の権力闘争の愚かさを身にしみて感じる年齢となり、それを、娯楽映画の中に皮肉を込めて表現したのではないだろうか。
「用心棒」の前年の1960年に、「悪い奴ほどよく眠る」が公開されていることも、それと関係するのかも知れない。
この時期の黒澤明には、どんな現実がとりまいていたのだろうか。

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