読書メモ・小川洋子『遠慮深いうたた寝』(河出書房新社、2021年)
小川洋子さんのエッセイ「到来―はるか遠くの美味しさ」(『遠慮深いうたた寝』河出書房新社、2021年)の出だしは、こんな文章で始まる。
「野坂昭如さんのエッセイを読んでいたら、”到来の羊羹”の一行に出会い、その羊羹が素晴らしく美味しそうに思えてならなかった。頂き物、贈り物、お土産。似たような言葉はいろいろあるが、到来、がかもし出す雰囲気は一種独特だ」
なるほど、たしかに「羊羹」と言えば、「到来物」である。「頂き物の羊羹」「贈り物の羊羹」「お土産の羊羹」とは言わない。羊羹は「到来物」でなければならないのだ。
立川談志の落語、たしか「雑俳」だったかと思うが、最初のご隠居とはっつぁんの会話のなかに、
「羊羹でも切るかな。
ええ羊羹けっこう!
そうかい?何でもいくんだな。到来物の羊羹だがね。
弔いもんですか?
「弔いもん」じゃねえ、「到来物」だよ。よそから頂いた…。
そうだろうねえ。買うわきゃねえからね。
口が悪いねどうも」
というやりとりがあって、ここでもやはり羊羹は「到来物」である。してみると、到来物の羊羹という言い方は、落語がルーツなのか?
「やはり羊羹は、気位の高い伯母さんからの到来に限る」
とも書いていて、これもまた、落語の「サンマは目黒に限る」を思い起こさせる。
野坂昭如のエッセイに書かれていた「到来の羊羹」に反応して小川洋子さんがエッセイを書き、さらにそこから連想して僕がとりとめのない文章を書く、という、エッセイの連鎖が、なんとなく好きなのだが、あまり人には理解されない趣味だろうな。
ついでに書くと、「”推し”のいる幸福」というエッセイもよかった。
「ミュージカルに目覚めた途端、スケジュールの管理がたいへんになった。それまでは、スケジュール、というほどの大げさなものとは無縁だった。手帳にぽつぽつと記される原稿の締切、ただそれだけを意識していればよかった」
で始まるエッセイは、アラフィフになってミュージカルに「落ちた」ことにより、人生が一変した幸福感を、短い文章のなかで余すところなく伝える。チケットの予約や代金の支払いやチケットの入手方法、読んでいるだけで目が回る感じがするのだが、それをいとわずに実行し、そしてそれをいとわずにエッセイに書くエネルギーがすごい。「ぼんやりしている暇はない」のだ。
「未来の一点に、自分の足跡を刻むように、公演名を大きな字で書き込む。その一行が、人生を先回りし、光を放ちながら私を待ってくれているような、小さな幸福を感じる」
味わい深い名文である。
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