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読書メモ·チョ·セヒ著、斎藤真理子訳『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社、2016年、原著は1975~1978年)

7年ほど前の2017年、古い韓国映画ばかりを観ていた時期があった。その中で強く印象に残った映画のひとつが、『こびとが打ち上げた小さなボール』(イ·ウォンセ監督、1981年)だった。若き日のアン·ソンギやクム·ボラといった俳優が出演していたので、なおさら鮮烈な印象を残した。
1970年代、都市開発が急速に進むソウル市で、貧しくも慎ましやかに生活していたスラム街の住居が立ち退きを迫られ、代わりに建てられるマンションの入居権として幾ばくかのお金が支給されるのだが、そのお金ではとてもマンションに入居できない。「こびと」と呼ばれた父の一家はそこから悲劇的な人生が始まり、貧困にあえぐ生活を余儀なくされることになる。言葉ではなんとも表現しがたいが、ひどく暗い内容の映画だった。
映画を観たあと、原作小説を読んでみたいと思って探したら、斎藤真理子さん翻訳の本が出ていたことを知った。しかし映画の内容のあまりの暗さを思い出すたびに、すぐに読むことが躊躇われ、結局「積ん読」のまま時間が過ぎた。読もうと思ったのは、入院して体調が安定してきたこともあり、時間のあるこの機会に読むことにしたのである。
いまさらながら知ったのは、原作の小説は、いくつもの独立した小説から成っているということだった。というより、一見独立してそうにみえる小説が実は繋がっているという連作小説といった方がよいのかも知れない。その中の一部が映画として作られたのだ。まず原作小説の複雑な構造に技巧性を感じ、この小説が当時から今に至るまで高い評価を得ていることの意味を知った。
比較してよいものかまことに判断に困るのだが、同じ斎藤真理子さんが翻訳したチョン·セラン著の『フィフティピープル』(亜紀書房、2018年)がやはり連作小説という形をとり、しかも各小説が有機的に結びついている。きわめて乏しい読書体験だがそのことを思い出した。
原作小説も、読めば読むほど暗い気持ちになってしまう。登場人物の人間関係もやや複雑だ。時代背景も私の知らないことがけっこうある。しかし斎藤真理子さんのわかりやすい名訳と丁寧な脚注のおかげで読み進めることができる。やはり原作小説は読むべきである。
さてこの小説に描かれているのは1970年代に急速に土地開発が進んだために「蹴散らされた人たち」の悲しみを代弁しているが、はたしてこれはもう隣の国の過去の物語として読んでしまってよいものだろうか。
翻ってこの国のことを考えてみるに、つい数年前もこれと似たようなことが起こったのではないだろうか。それは2020年の東京五輪にむけての再開発という名のもとに、新国立競技場の近くにあった都営霞ケ丘アパートが強制撤去されたことである。その前の東京五輪の頃から建っていたそのアパートには、当初から住んでいたという住人たちがすっかり生活を定着させ、アパート全体が一つのコミュニティを形成していた。それがたった2週間ほどのイベントのために、たった一枚の通知だけで退去を命ぜられたのだ。その一部始終は青山真也監督『東京オリンピック2017 都営霞ケ丘アパート』(2021年8月公開)というドキュメンタリー映画に詳しく描かれている。私はこの小説を読んでその映画のことを思い出し、決して隣の国の過去の物語という評価にとどめてはいけないと感じたのである。

*さすがにこのペースで書き続けるのはしんどいので今後はペースダウンすることも考えます。

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