対談は人なり・大森荘蔵×坂本龍一『音を視る、時を聴く 哲学講義』(ちくま学芸文庫、2017年、初出は朝日出版社、1982年)
先日、Aさんという人に会った。記憶の中では、Aさんは体格のがっしりした、角刈りの人だったというイメージだったのだが、実際に会ってみると、Aさんは痩せぎすで色白で長髪の人だった。
Aさんに会う前の、私の脳の中にいたAさんは、いったい誰だったのだろう?
いわゆる「空耳」ならぬ「空脳」である。
この話で思い出したのが、大森荘蔵+坂本龍一『音を視る、時を聴く 哲学講義』(朝日出版社、1982年)という本である。
当時、朝日出版社は「Lecture books」というシリーズを出していて、その道の専門家と、その分野に関心のある著名人の対談形式による学問の入門書のようなものだった。入門書といっても、大学の講義並みに内容は難しかった。
中学校3年生のころだったか、YMOのファンだった私は、坂本龍一さんがかかわっている本だという理由だけで、この本に飛びついた。
本の帯には「〈私〉はいない」と書かれてあって、それがまた、中学生の私には衝撃的だった。
内容はひどく難しかったが、ワクワクしながら読んだ。
この本をきっかけに、このシリーズの別の本も何冊か読んだ。玉石混淆だったことは否めないが、いずれも面白かったと記憶している。
それに、この本をきっかけに坂本龍一さんの対談相手である大森荘蔵さんの『流れとよどみ ー哲学断章ー』(産業図書、1981年)や『時は流れず』(青土社、1996年)を手にとった。しかしやはりひどく難しい内容で、これは「あとで読む」本としていまも自分の手の届くところに置いてある。
Wikipediaによれば、朝日出版の「レクチュア・ブックス」(英称:LECTURE BOOKS)は、1978年から1988年にかけて朝日出版社から刊行された対談シリーズで、47冊刊行されているようである。これまたWikipediaの説明によると、
「学問の先端が、それぞれの固有の論理によって先に進みすぎた結果、専門化・体系化された学問が一般の読者には容易に理解し得ないものになってしまったことを踏まえて、学問を生きたことばによって再構成することを目指して、「アカデミズムと文学者の対話」として、講師の学者と人気作家を組み合わせて対話形式の講義をおこない、それを書籍化した」
とある。対談は、いまの視点から見ても魅力的な「座組み」ばかりである。作家のほかに、坂本龍一さんや冨田勲さんといった音楽家も対談相手に名を連ねている。
『音を視る、時を聴く』は、このシリーズの中でも屈指の傑作だったようで、2017年にちくま文庫から復刊されている。
いま読んでも内容は難しい。それに、いまの学問水準に照らしてどうなのか、といった点はよくわからない。
しかしこの本は、「考えることの楽しさ」を教えてくれた。
いくら考えても正解なんてわからない。でもそれが学問なのだ、ということを教えてくれた。
いまはこういう学問が、肩身が狭くなりつつある。
「正解がない」ことを恐れずに物事を考える機会が、めっきり少なくなってしまった。
このシリーズ、他の本も復刊してくれないかなあ。