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読書メモ・頭木弘樹『口の立つやつが勝つってことでいいのか』(青土社、2024年)【その1】

この本について書きたいと思いつつ、買ってから時間が経ってしまった。
ありふれた言葉になってしまうが、この本は「生きづらい社会で生きるための指南書」である。

著者の頭木弘樹さんは、大学3年の20歳の時に潰瘍性大腸炎という難病にかかり、10年以上の闘病生活を送った。そのあたりのことについては、『食べることと出すこと』(医学書院、2020年)に詳しい。
私は『食べることと出すこと』を読んで頭木さんのファンになった。大病を患うと世の中を見る解像度が上がる。何とも皮肉な話だが、大病を患った経験を持つ私にとっても、そのことで思考が研ぎ澄まされていった気がする。
頭木さんは、難病に悩まされ、絶望の淵に立たされるのだが、それを救ったのは文学だった。いまは文学紹介者という肩書きで本の執筆だけでなくラジオにも出演されている。この本は、「初のエッセイ集」と帯に書いてあり意外に思ったが、文学作品を紹介するのが主たる目的の本ではないという意味で、純粋なエッセイ集としては「初めて」という意味なのだろう。

エッセイに書かれているひとつひとつのエピソードが、いずれも私にとって共感することばかりである。
「理路整然と話せる方がいいのか?」という章では、Mさんという人物のエピソードが面白い。Mさんの話はいつも面白くて、何時間喋っても飽きないのだが、あるとき、頼みごとがあると呼び出されて、何時間も説明を聞いているのに、何を頼みたいのか、よくわからない。いっこうに要領を得ない説明で、結局自分は何を頼まれたのだろう困ってしまったのだが、考えてみれば自分は理路整然と話したり、理路整然とした話を聴くことにとらわれすぎているのではないかと頭木さんは思い始めるのである。そもそもほんとうに大切なことは、言葉にできないのではないか。
私にも思い当たるフシがある。私の友人にも、話の面白い友人がいて何時間聞いていても飽きないのだが、冷静になってみると何が言いたいのかわからなかった、という経験をたびたびした。ではその時間が無駄なのかというと、決してそうではない。話があっちこっちに飛んだり、この話、どこに連れていかれるんだろうと不安になりながらも、彼の訴えたいことは十分に伝わるし、むしろそのほうが心に残ることもある。「理路整然としゃべることができる人も素敵だが、理路整然とせずにしゃべることができる人も、また素敵だ。前者だけではなく、後者もいてほしい。前者だけではなく、後者も尊重してほしい」(39頁)と頭木さんは述べている。これは私のこれまで出会ってきた信頼すべき人たちを思い返しても、まことに共感できる言葉である。

また、こんなエピソードも紹介している。
ある作家の本がとてもよく売れているのだが、内容に重複があったり、堂々巡りをしていたりして実にすっきりしない。それを見かねた編集者が原稿に全面的に手を入れ、理路整然としたすっきりした本に書き換えた。ところが不思議なことにその本だけは売れなかったという。実は読者にとっては、理路整然としていない文章が、その作家の魅力であり、味であったのだ。
そこから私が感じることは、語り口が理路整然であるかそうでないかは、その人物のキャラクターと分かちがたく結びついているのではないか、ということだ。どちらにせよ、その人の魅力として尊重すべきことなのだろう。

…と書いているうちに、予定していた字数に達してしまった。この本にはまだまだ書きたいことがあるので、それについてはあらためて書くことにする。

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