読書メモ・小玉武編『山口瞳ベスト・エッセイ』(ちくま文庫、2018年)
必要があって乱雑に積んである本の整理を少しはじめたら、『山口瞳ベスト・エッセイ』が、読んでくれとばかりに顔をのぞかせた。
私はちくま文庫の「ベスト・エッセイ」シリーズが好きで、気になる作家の「ベスト・エッセイ」が発売されるとつい、書店の本棚に手を伸ばしてしまう。しかし、最初から最後まできっちりと読んだというものはなく、結局は「つまみ読み」をして終わってしまうことがほとんどである。
『山口瞳ベスト・エッセイ』も、途中まで読んでいてそのままになってしまっていた。栞がはさんであるところから続きを読み進めると、「木槿(むくげ)の花」という全8回のエピソードに、すっかりと釘付けになってしまった。なぜならそこには、向田邦子に関する山口瞳の思い出がこれでもかと書かれているからである。
脚本家でありエッセイストであり小説家でもあった向田邦子は、1981年8月22日に取材先の台湾で飛行機事故に巻き込まれ、51歳で亡くなった。山口瞳はこのとき、漫然とテレビを観ていてニュース速報で台湾の飛行機事故のことを知り、イヤな予感がよぎる。向田邦子がこのとき台湾で取材旅行をしていることを知っていたからである。やがて状況が明らかになり、日本人の乗客名の中に「K・むこうだ」があることを知る。
そこから、山口瞳による向田邦子の人生への考察が始まる。
「向田邦子は六年前に乳ガンの手術をした。そのへんで開き直った、性根がすわったと見る人が多い。
某放送局の社員で、彼女のガンは転移していたと言う人がいる。そういうことは私にはわからない。大手術だから、その後も月に一回ぐらいの通院を続けていたのではあるまいか。
私は、漠然と、彼女は自分の死期を知っていたのではないかという気もしているのである。いまになって思えば、ということであるが。
少なくとも、彼女は、こんな健康状態でいられるのは、あと一年くらいだと思い定めていたのではあるまいか。(後略)この二年間、いや大手術以後の六年間の彼女の仕事ぶりはメザマシイの一語に尽きる」(203頁)
こんなエピソードも紹介している。そこには若くして亡くなった作家の野呂邦暢のことについてもふれている。
「若い編集者たちと酒を飲んでいるとき、私が、
『いま、私が考えているのは、老後を安楽に暮らしたいと言うことだけだな』
と言った。
『私もそうなの。余生を安楽に暮らしたいわ。ゆっくりと、なんにもしないで』
向田邦子も同じことを言った。
『えっ?向田さんも、これは驚いた』
若い編集者は、とても信じられないという顔をした。
『本当よ。もう、こんな生活、厭なの』
野呂邦暢が急死したとき、向田邦子は、
『四十二歳なんかで死んじゃ駄目よ。絶対に駄目よ』
と、叩きつけるような調子で言った。彼女は何物かに怒りをぶちまけるような顔つきで、体を震わせてそれを言った(後略)」
そんな向田邦子を見続けた山口瞳は、こんな思索に到達する。
「向田邦子の遭難死を知ったとき、何か辻褄が合っているような、まるで計算ずくでもあるような気がしたのは、そんなことがあったからである。晩年の彼女には、自分の運命が見えていたというような気がしてならないのである。向田邦子は『向田邦子の生涯』という脚本に自分の遭難死まで書き込んでしまったと思っている」
男女問わず、同じ業界にいるだれもが向田邦子のファンだった。とくに男性は、そのことをてらうことなく書いている。山田太一もそうだった。
雑感・『文藝別冊 総特集 山田太一 テレビから聴こえたアフォリズム』(河出書房新社、2013年)|三上喜孝 (note.com)
そして誰もが、向田邦子の才能を発掘したのは自分だと思っている。山口瞳も、
「なんだか向田邦子という才能を発掘した手柄話のようになってしまったが、…」
と書いている。向田邦子はみんなにそう言われることをまんざらでもないと思ったのか、それとも煩わしいと思ったのか、永遠にわからない。