見出し画像

読書メモ·酒井順子『ガラスの50代』(新潮文庫、2022年、初出2020年)

エッセイスト·酒井順子さんの本を読むようになったのは50代になってからである。年齢は私よりも少しだけ上だと思うが、ほぼ同世代と考えてよい。
なかでも『ガラスの50代』はアラフィフの必読書として、激しく共感することが多い。
わかるー、と思ったのが、次のくだり。

「SNSが流行り始めた頃、私は四十代前半。今一つわけがわかっていなかったけれどフェイスブックというものに登録してみたのは、四十五歳の頃でした。それはちょうど、人の「懐かしみたい欲求」が急激に上昇して行くお年頃です。(中略)
そんな中年達にとってSNSは、渡りに船的な道具となりました。昔の仲間達と次々につながり、
『久しぶりに集まりました!』
と、楽しげな画像をアップするという現象がそこここで。(中略)
もちろん私も、例外ではありません。SNS上で、昔の知り合いと次々につながっていくと、青春再来的なわくわく感を覚えたもの。リユニオン的な集まりも、頻繁に開かれるようになりました。(中略)
しかし最初の感動は、次第に薄れていきます。(中略)久しぶりの再会時には懐かしくていろいろな話が弾んだものの、二回目には話すネタも尽き、「ま、こんなものだよね」という感じに。長年会わずにいたのにはそれなりの理由があったのだ、ということがわかるのでした。
私がこのように感じるということは、向こうも同じことを感じていたということでしょう。フェイスブックが広まった頃は盛んに行われたリユニオン活動も、かくして次第に沈静化していったのです」

この文章を読んで、僕のまわりで起こっていたいくつもの不思議な現象が、腑に落ちたのである。
若い子たち(「若い子」の定義は人それぞれだが)は、Facebookをあまりやらず、むしろ熱心なのは、アラフィフ以上のほうだったりするのが、前から不思議だった。何でそんな熱心なんだ?と疑問に思っていたが、あれは、中年たちにとって、昔の仲間とつながることができる、格好の遊び道具だったからなんだな。
数年前、Facebook上で高校時代の同級生たちに声をかけられたのだが、久しぶりに再会して飲みに行こうと、えらく盛り上がった。
私はまったく行かなかったのだが、数カ月に一度ていど、仲のいい人たちが集まり、それこそ『久しぶりに集まりました!』と、楽しげな画像をアップしたり、次の集まりの日程調整の連絡が来たりと、最初のうちは盛り上がっていた。ところがいまは、パタッと音沙汰がなくなった。
なるほど、酒井順子さんの言う「リユニオン活動が沈静化する」というのは、こういうことを言うのだなと、溜飲が下がる思いがしたのである。
いまのFacebookを見てみたまえ。若い人たちは登録はしているもののほとんど投稿などせず、逆に50代を中心とした世代の解放区になりつつある。自分語りや自慢話などのナルシシズム的な記事や、上から目線やアンチを口汚く罵る記事など、読むに堪えないものがタイムラインで流れてくる。私は恐ろしくなり、Facebookに自分の近況などを書くのをやめた。そういえばほんとうに親しい人とはFacebookで友だちになっていないことにも気づいた。それでもFacebookをやめることができないのは、ごくごく少数ながら、親しい人や信頼できる人とかろうじて繋がっているからである。そこは断ち切りたくない。そのていどのことである。

いいなと思ったら応援しよう!