【働く論考】労働と仕事 意図的な倒錯の主体_2
前項に引き続き、下記について論じていく。
前提の再掲
(上下線内再掲_本稿からご覧いただく方向け、前提の説明)
「はたらく」という言葉が労働と仕事に分かれず、意識されない状態であることは前項までに述べてきた。
この記事では倒錯が意図的に行われていることを記載していきたいと思う。
意図的にそれを行うには誰が得するのか、なぜ得するのかという構造を詳らかにしていく。
多くの場合「はたらく」という言葉において、本来「労働」であることを「仕事」であると思わせる構造となっている。
つまり、生きるために義務的に行なっている活動に対して、それはあなたがやりたくてやっている活動ですよということを主張するという構造になる。
この構造がわかるだけで、誰がどのように利益を得るのかが分かりやすくなってくるはずだ。
労働であることを仕事だと思う(思わせる)ことで得をする人メリットのある人は誰だろうか。
少し視野を広げて洗い出してみる。
1.つまらない仕事を依頼する事業者
2.部下のやる気を引き出したい管理者
3.自らの労働意欲を振り絞りたい労働者
4.対価以上のサービスを受けたい消費者
3.自らの労働意欲を振り絞りたい労働者
3番目に取り上げる倒錯のプレーヤーは労働者自身である。
この論考においては、自らを労働者であると思いたくない労働者が自らの本音と周囲及び自身からの期待に応えることができない自分自身によって追い込まれてしまう構造を何度か述べてきた。
つまり、本来その活動の意味合いとして労働であるような活動を仕事であると思い込むことによって自らの活動を自身に対して正当化するような構造があるのではないだろうか。
生きるための労働は決して悪いことではないのだが、生きるために本来心からやりたいと思っているわけではない活動をしている時間に対しての自らへの正当化であり納得のさせ方として、「これは自分が望んだ活動であり、お金のためだけにやっているものではない」と思うことによって望むべく賃金が得られていないことや自分が提供する労働力と自分が思う価値との乖離を自ら埋めようとしている構造がある。
そもそも労働でも仕事でもその活動自体に変わりはないのであるが、先に述べたように、「労働」という言葉には、暗く重たいイメージや虐げられている労働者のようなイメージがある。
本来労働者であると割り切ることで自らの労働力価値を高く交換することに対して目が向くはずだったものが、「仕事である」という認識に転換されることによって労働力と対価としての賃金という構造から奇妙に目を背けてしまうようになる。
この時、労働者自身が「労働」を「仕事」と意図的に倒錯することによって自らの理想との乖離に抗っているという構造が生じている。
さらに1.や2.で述べたような管理者による意図的な倒錯のマネジメントが加わることによって労働者は容易く自らの労働を仕事であると誤認する。
この誤認は本来労働者が、その労働において論点とすべき自らの労働力の提供によって得られる対価を最大化するという行動から目を曇らせてしまう点において労働者の本質的な価値に影響する倒錯となっていると言える。
4.対価以上のサービスを受けたい消費者
「労働」を「仕事」と倒錯させるプレーヤーについて見てきたが、実はこの状況に加担する4人目が存在している。それは自らが支払った以上のサービスを受けようとする消費者である。
もちろん全員では全くないが、例えば飲食店でアルバイトをする学生を例に挙げて説明していく。彼らにとってそれは学費や生活費を稼ぐための労働であることがほとんであろう。
その労働自体をお金をもらえなくてもやる「仕事」であると捉えている学生はさほど多くないはずだ。
時給であれば同じ時間を過ごせば同じだけの給料が支払われるわけであるから、本来彼らに対して最低限の業務オペレーションを超える接客やサービスは求めるべきにない。
彼らが評価によって時給が上がったり下がったりするとか、自らの労働場所の持続性のために集客するとかというインセンティブは働くが、本来は最小の労力によって同じ時間給を得るということが経済的に合理的な活動である。
この最小の労力で時間給を稼ぐという活動に対して、上記のように雇用者が努力へのインセンティブを設計することで活動強度をコントロールすることができる。
しかしこの本来合理的な活動態度を消費者が許さないケースがある。
自らも働く場所が違うだけで同じ労働者の立場であるにも関わらずだ。
従業員としてのあるべき姿を消費者が勝手に定義をして、その定義から外れた態度に対して怒ったり、クレームを入れたりする。「お客様は神様」などと自らを神様と名乗る人もいる。
この行動は労働者にとって極めて悲劇的であり、労働者が他の労働者に対してこの態度を取ることは自らの首を絞めていることに気が付かなければならない。
本来時間給を得る以上の労力を割く必要がない労働者が、他の労働者に対してそれを求めることによって同じ時間給の中で提供する労働力を増加させることにより、労働力の価値を相対的に下げている構造となる。
もし、「自分はこのように接客している」などと他の労働者にもそれを求めるとすれば自ら労働力の価値を下げ、他者にもそれを強要するという点で2倍の害悪となっている。
この記事で述べてきたように、自らが労働者である意識が弱いこと、他の労働者も同じように労働力の対価として賃金を得ている構造であり、労働力の価値は相対的に決まるため一定の集団が労働力の価値を下げることが他の労働者にも影響すること。
或いは多くの場合そのようなことも考えず、自己愛による行動で他者および自己の価値も下げていることに気が付かないか興味がないなども考えられる。
この多くの「労働者である消費者」が他の労働者に対して本来提供すべき対価を超えるサービス(=労働力)の提供を迫る構造がお互いに自らの労働力の価値を下げ続けるという悲劇的な構造を生んでいる。
ここまで4つの立場のそれぞれが「労働」と「仕事」を倒錯させる行動について記載してきた。
次項でそういった構造が生んでいる状態についての見解を述べていくこととする。