友からの嬉しい報告

なぜこんなにも嬉しいのだろう?

今LINE上で繋がっていて、自分の病状を知る唯一と言ってもいい友達からの連絡が来て、その友達がやっている表現のお仕事でうまくいったといった趣旨の連絡がきた。

その素晴らしい報告をしてくれるのがまず嬉しいし、友達の嬉しい報告がまるで自分ごとのように嬉しく感じる。

なぜ、こんなにも嬉しいのだろう?

自分ごとというか、なんというか、まるで自分の娘が活躍したような、そんな感覚。

いやいや、、その友達は同級生だし、自分は娘を持ったことどころか結婚すらしたこともないのだけれど、。

そして何より、無職でうつな自分を棚に上げておいてどの目線で語っているんだという話なんだけれど、でもそんな、なんとも言えない嬉しいさを感じた。

昔だったら、もしくは同じ世界にいてライバルだったら、嫉妬心や羨ましさが優ったかもしれないけれど、今はもう純粋にとにかく嬉しい。

別に昔も人の幸福を喜べないほど腐った人間ではなかったつもりだけれど、うつ病になって自分の人生では嬉しいと思えることがなくなった今となっては友達の活躍報告が何よりも嬉しいし、自分も頑張ろうと思える。

頑張ろうというか、、人生っていいこともあるな〜〜って、生きてて良かったな〜、、、もしかしたらまだ、いいことがあるかもしれないと思えるような、、。

きっとその友達にとってはただただ嬉しい報告として友である自分に報告してきてくれたのだろうけれど、自分にとってはそれくらい大きな出来事だ。

大学時代の友達

うつ病になってから読んだTestosteroneさんの本の中で
「学生時代に出会う異性は、今後、合コンで出会うであろう、どんなゆるふわ〜なOLやセクシーなお姉さんよりも貴重でかけがえのない存在」
といったような内容を思い出した。

本当にその通りだと思う。

その友達は大学の同級生で、本当に大学に通っておいてよかったと思った。

高校もろくに行かずに、中学の頃の友達とも縁を切ってしまった自分にはもう大学で出会った友達しか残っていない。

まあ、運よく中学の頃の友達と今でも仲良くしていたとしても、そこに異性の友達などいないのだがw

大学を卒業した今となっては逆に異性の友達、二、三人しかいなくなった。

そう考えると、どん底と思える今でも、きっと恵まれている側なのだろう。

異性との交流など全くない男性だっているはずだ。

生きなければ

俺は今よりもさらに辛い時期に相談に乗ってくれた大学で出会った
友達たちに恩返しすることが今の人生の唯一の生きがい、生きる意味だ。

特に、今日連絡をくれた友達は本当にお世話になった。

友とはいえ、たくさんの時間を俺のために割いてくれた。

だからこそ、生きなければならない、そしてゆっくりでもいいから復活しなければならない。

そしていつの日か恩返しを。


う〜〜ん、、イマイチこのnoteでの一人称が「自分」なのか「俺」なのか定まっていない。

いや、noteどころか普段から定まっていないのだろう。

「俺」っていうと少し偉そうな気もするし、「自分」って言い続けるのも少し気持ち悪いような、でもきっと最後の文を「俺」にしたってことはきっと男としての決意の表れのような気が、、。

ああ〜、考えるのをよそう。一人称の意味を考えられるほど、まだ自分は元気ではない。



”コウノトリやサンタさんよりもLINEは嬉しさを運んでくれる”




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