月を捲る 下 #シロクマ文芸部
「むかしむかしのお話です
あるところに お姫様がいました
お姫様は 王子に恋をしました
ですが 王子は去りました
悲しんだお姫様は 違う男と結婚し 幸せに暮らしました
めでたし めでたし―――」
正午をすぎた駅ホーム。
わたしは、電車を待っていた。
わたしの椅子の隣には、小さな女の子がお行儀よく座り、わたしの手を握りながら、いつものように、わたしの独り言を聞いていた。
女の子が、わたしの物語に興味を示した。
「王子は、なぜいなくなっちゃったの?」
女の子は、そう尋ねた。
わたしは言った。
「―――わからないわ。」
わたしの答えに、女の子は「ふーん……」と、口を突き出した。
そう。
ほんとうに、わからないんだ。
*
あなたと別れたわたしは、同じ職場の男性と結婚し、母となった。このかわいい女の子は、わたしの娘だ。
幸せか?
と、聞かれれば、「そうでしょうね」と、今のわたしは答えるだろう。
別に、未練があるわけじゃない。今更あなたに会いたいわけでもないし、夫はわたしを愛してくれていて、わたしも夫と娘を愛している。
〝じゃあ、なぜ思い出すの?〟
なんでかな。
たぶん、答えを探しているんだと思う。
あの日、あの時期にしては、冷える月夜で。ハザードを焚くあなたの車に入るとカーエアコンがつけられていて、窓ガラスについた薄い結露が、すうっと晴れていくのを、わたしは見た。
きっと、月夜に薄着で出てきたわたしを見て、慌ててカーエアコンをつけたんだって。
ドリンクホルダーのお茶も、そう。
あなたは、コーヒーしか飲まないくせに、温かいお茶を買っていて。あれ、わたしに買っていたものでしょう? あのとき、貰っておけばよかったよ。
あの車の中、あなたは、わたしの名前を、何度だって間違えて。わたしの名前だって。指輪のサイズを聞いてくれたことだって。みんな忘れるくらいに、どうでもいいって。あなたは、そう思っていたはずなのに。
なのに、あなたは、いつものようにわたしを優しく見守ってくれていた。
その答えを、わたしは、今も探し続けていて、まるで時間が止まったみたいに、前に進みだせずにいるんだ。
*
「お母さん?」
娘の呼ぶ声で我に返ったわたしは、彼女が指をさす方を見た。
そこには、車椅子の男性がいた。
事故だろうか。顔を包帯で巻かれた彼は、動かしにくそうな両手を使って、お茶のボトルを、車椅子のポケットから取り出そうとしていた。
大変そうだな―――、わたしがそう思ったとき、お茶のボトルが、彼の不自由な手から転がり落ちた。
「―――あ。」
娘はそう言って、転がり落ちたお茶のボトルを拾い上げようと駆け寄ったが、彼の優しい声が娘を止めた。
「ありがとう。でも大丈夫。自分でできるから。」
彼は、そう言って、身体を支えるベルトを外した。
そして、不自由な両腕で車椅子の肘掛けを支えながら、力を込め、ゆっくりと前にかがんでいった。
わたしは思った。
彼は、過去を越えようとしている。
事故を乗り越え、自分の力で生きていこうとしているんだ。
“がんばれ―――”
わたしは、心のなかで、そう呟いた。
*
あの日、あなたと別れたわたしは、自分が幸せになることしか考えなくなった。
だって、そうでしょう?
女の子は、いつだってお姫様に憧れるし、優しくされたら、弱いんだ。
でもさ。
わたしは思った。
現実にお姫様なんていやしないし、優しくしてくれる人だって、いつかはいなくなってしまう。わたしたちは、ひとりで立って、人と支え合って、生きていかなきゃいけないんだ。
今、車椅子の彼を応援しているわたしは、自分だけじゃなく、他人の幸せも思いやれる人間に生まれ変われるのかもしれない。
「―――がんばれ!」
いつしか、わたしは声を上げていた。
*
車椅子に乗ったまま、深くかがむ彼の手が、お茶のボトルを掴んだ。
ボトルを手にした彼は、くの字に曲がった体のまま、両手を自分の膝についた。
彼の耳が、真っ赤になった。彼は、身体を起こそうと、踏ん張ばっている。耳まで赤くして、歯を食いしばっている。
少しずつ、起き上がっていく身体。
彼の体幹は、麻痺している。
支えるのは、不自由な両腕だけ。
震える両腕が、彼の腕に込められた、〝彼の思い〟をわたしに伝える。
起き上がるんだ。
きっと、立ち直るんだ。
そんな、強い気持ちを。
彼の身体は、ついに起き上がった。
車椅子の彼は、笑っていた。包帯を巻いた顔に、汗を浮かべて。拾い上げたお茶のボトルを、誇らしそうに、掲げながら。
*
車椅子の彼を見送ったわたしたちは、ホームから、空を見上げていた。見上げた真昼の空には、白い月が、ぽっかりと浮かんでいた。
「彼、かっこよかったね。」
わたしがそう言うと、顔を赤くしながら、〝フンフン!〟って頷く娘に、わたしは少し笑ってしまった。
「むかしむかしのお話です
女は 男と恋に落ちました
しかし 男は女を残し去りました
女は 悲しみ 立ち止まり 新たな一歩を踏み出せずにいました
ですが 女はやっと前に進む勇気が芽生えたようでした
これから 女は数々の苦難に見舞われることでしょう
しかし こうも考えました
ひとりで立って歩いていくために
人と支え合って 生きていくために
強くあろう と―――」
うん。
こっちのほうが、断然いいね。
おとぎ話としてはイマイチだし、娘はポカンとしているけれど。
月日は、移りゆく。
人も、変わる。
心が、満ちたのだ。
きっとそうだ―――。
「〝月捲(つきめくり)〟だね。」
いつもの独り言に、わたしはそう思った。
[おわり]