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月を捲る 下 #シロクマ文芸部






 「むかしむかしのお話です
 あるところに お姫様がいました
 お姫様は 王子に恋をしました
 ですが 王子は去りました
 悲しんだお姫様は 違う男と結婚し 幸せに暮らしました

 めでたし めでたし―――」





 正午をすぎた駅ホーム。
 わたしは、電車を待っていた。

 わたしの椅子の隣には、小さな女の子がお行儀よく座り、わたしの手を握りながら、いつものように、わたしの独り言を聞いていた。

 女の子が、わたしの物語に興味を示した。

 「王子は、なぜいなくなっちゃったの?」

 女の子は、そう尋ねた。
 わたしは言った。

 「―――わからないわ。」

 わたしの答えに、女の子は「ふーん……」と、口を突き出した。

 そう。

 ほんとうに、わからないんだ。





 あなたと別れたわたしは、同じ職場の男性と結婚し、母となった。このかわいい女の子は、わたしの娘だ。

 幸せか?

 と、聞かれれば、「そうでしょうね」と、今のわたしは答えるだろう。

 別に、未練があるわけじゃない。今更あなたに会いたいわけでもないし、夫はわたしを愛してくれていて、わたしも夫と娘を愛している。


 〝じゃあ、なぜ思い出すの?〟


 なんでかな。
 たぶん、答えを探しているんだと思う。


 あの日、あの時期にしては、冷える月夜で。ハザードを焚くあなたの車に入るとカーエアコンがつけられていて、窓ガラスについた薄い結露が、すうっと晴れていくのを、わたしは見た。

 きっと、月夜に薄着で出てきたわたしを見て、慌ててカーエアコンをつけたんだって。

 ドリンクホルダーのお茶も、そう。

 あなたは、コーヒーしか飲まないくせに、温かいお茶を買っていて。あれ、わたしに買っていたものでしょう? あのとき、貰っておけばよかったよ。

 あの車の中、あなたは、わたしの名前を、何度だって間違えて。わたしの名前だって。指輪のサイズを聞いてくれたことだって。みんな忘れるくらいに、どうでもいいって。あなたは、そう思っていたはずなのに。

 なのに、あなたは、いつものようにわたしを優しく見守ってくれていた。

 その答えを、わたしは、今も探し続けていて、まるで時間が止まったみたいに、前に進みだせずにいるんだ。





 「お母さん?」

 娘の呼ぶ声で我に返ったわたしは、彼女が指をさす方を見た。

 そこには、車椅子の男性がいた。

 事故だろうか。顔を包帯で巻かれた彼は、動かしにくそうな両手を使って、お茶のボトルを、車椅子のポケットから取り出そうとしていた。

 大変そうだな―――、わたしがそう思ったとき、お茶のボトルが、彼の不自由な手から転がり落ちた。

 「―――あ。」

 娘はそう言って、転がり落ちたお茶のボトルを拾い上げようと駆け寄ったが、彼の優しい声が娘を止めた。

 「ありがとう。でも大丈夫。自分でできるから。」

 彼は、そう言って、身体を支えるベルトを外した。

 そして、不自由な両腕で車椅子の肘掛けを支えながら、力を込め、ゆっくりと前にかがんでいった。

 わたしは思った。

 彼は、過去を越えようとしている。

 事故を乗り越え、自分の力で生きていこうとしているんだ。


 “がんばれ―――”


 わたしは、心のなかで、そう呟いた。





 あの日、あなたと別れたわたしは、自分が幸せになることしか考えなくなった。

 だって、そうでしょう?

 女の子は、いつだってお姫様に憧れるし、優しくされたら、弱いんだ。

 でもさ。

 わたしは思った。

 現実にお姫様なんていやしないし、優しくしてくれる人だって、いつかはいなくなってしまう。わたしたちは、ひとりで立って、人と支え合って、生きていかなきゃいけないんだ。

 今、車椅子の彼を応援しているわたしは、自分だけじゃなく、他人の幸せも思いやれる人間に生まれ変われるのかもしれない。


 「―――がんばれ!」


 いつしか、わたしは声を上げていた。





 車椅子に乗ったまま、深くかがむ彼の手が、お茶のボトルを掴んだ。

 ボトルを手にした彼は、くの字に曲がった体のまま、両手を自分の膝についた。

 彼の耳が、真っ赤になった。彼は、身体を起こそうと、踏ん張ばっている。耳まで赤くして、歯を食いしばっている。

 少しずつ、起き上がっていく身体。

 彼の体幹は、麻痺している。
 支えるのは、不自由な両腕だけ。

 震える両腕が、彼の腕に込められた、〝彼の思い〟をわたしに伝える。

 起き上がるんだ。

 きっと、立ち直るんだ。

 そんな、強い気持ちを。

 彼の身体は、ついに起き上がった。

 車椅子の彼は、笑っていた。包帯を巻いた顔に、汗を浮かべて。拾い上げたお茶のボトルを、誇らしそうに、掲げながら。





 車椅子の彼を見送ったわたしたちは、ホームから、空を見上げていた。見上げた真昼の空には、白い月が、ぽっかりと浮かんでいた。

 「彼、かっこよかったね。」

 わたしがそう言うと、顔を赤くしながら、〝フンフン!〟って頷く娘に、わたしは少し笑ってしまった。





 「むかしむかしのお話です
 女は 男と恋に落ちました
 しかし 男は女を残し去りました
 女は 悲しみ 立ち止まり 新たな一歩を踏み出せずにいました

 ですが 女はやっと前に進む勇気が芽生えたようでした

 これから 女は数々の苦難に見舞われることでしょう

 しかし こうも考えました

 ひとりで立って歩いていくために
 人と支え合って 生きていくために

 強くあろう と―――」




 うん。

 こっちのほうが、断然いいね。
 おとぎ話としてはイマイチだし、娘はポカンとしているけれど。


 月日は、移りゆく。

 人も、変わる。

 心が、満ちたのだ。

 きっとそうだ―――。


 「〝月捲(つきめくり)〟だね。」


 いつもの独り言に、わたしはそう思った。

 




[おわり]


#シロクマ文芸部


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