ときを超えて受け継ぐもの
先日大好きだったおばあちゃんが旅立ったこともあって、おばあちゃんから受けついだ大事なことをテーマに大事な思い出も振り返ろうと思います。
おばあちゃんというひと
私のおばあちゃんは戦争を体験した世代の人です。
戦後その時代の女性には珍しくフルタイムで保育士としてバリバリ働き、定年前には園長先生になるくらい仕事に力を注いだ人でした。
母が幼い頃のおばあちゃんは教育熱心で、その熱心さ故に成績があまり良くなかった母はしょっちゅう厳しく叱られていたそうです。「お母さんは本当に怖かったのよ」と小さい頃母からよく聞かされました。
私にとってのおばあちゃん
でも私にとってのおばあちゃんは、母からの見方とは異なるものでした。
小さい頃、おばあちゃんの家に行くのがとても大好きでした。
ボロボロの昔ながらの日本家屋で、網戸も無いから蚊がいっぱい来るし、ゲームもないし仲の良い友だちもいない。それでもおばあちゃんの家は自由と冒険に溢れていて、ボロボロのその空間はとても温かった気がします。
思い返して見ると、おばあちゃんは”わたしがそのままのわたしで在ること”を最初に尊重してくれた人でした。
思春期になると、空想好きの私の頭の中は突然悩みで溢れかえるようになりました。今でこそ自分の性質とうまく向き合えているけれど、当時は他人の気持ちと自分の境界線が曖昧で、人目が気になるからいい子でいないといけないし、世の中は疑問で溢れているのに私の話を最後まで聞いて、疑問に向き合ってくれる大人はおばあちゃんだけでした。
だからいつもおばあちゃんの家に行くと、布団に入ってから寝落ちしてしまうまで満足するまで話し続けました。
どんな思い込みの話をしても「あなたはそんな風に考えるのね。発想が豊かね」と言ってくれるおばあちゃんと話をすることが本当に大好きでした。
受け継いだもの
さて、思い出話が長くなりすぎてしまいましたが、ここからはタイトルにちなんだ話をしようと思います。
おばあちゃんから受け継いだなと思っていることは以下のことです。
ありのままで生きていいということ
お金の上手な使い方
いくつになっても学び成長することが幸せであること
伝えられることは伝えられるうちに行動すること
ありのままで生きていいということ
冒頭で紹介した通り、おばあちゃんは戦後の男性社会のなかでキャリアウーマンとして、自分の生き方を貫いてきました。その影響で母たち娘は大変だったと聞くけれど、決して家族の犠牲になったと誰かや何かのせいにして何かを語ることはありませんでした。
自由で豊かな現代では想像できないくらい大変だったと思うけれど、生前痴呆が入ってしまったあとも、自分の生きざまをとても誇りに語っていました。
そんな生きざまがとてもカッコよくて、改めておばあちゃんの孫でよかったと思うし、参考にしていこうと思っています。
お金の上手な使い方
おばあちゃんが施設に入ったあと、時々母と叔母とともに家の整理をしていました。その際、おばあちゃんの持ち物を譲り受ける機会が多々あり、それらの機会は私の持ち物への価値観に大きく影響を与えました。
恥ずかしながらそれ以前はどちらかというと、流行り物を買って必要なくなったら捨てる、買って届いたものが想像と違ったから使えなくても安いから仕方ない、など、いわゆる安物買いの銭失いのような価値観だった気がします。
でも譲ってもらったおばあちゃんのものは、時が経っても使うことができるものばかりでした。本当にいいものを手にする価値を学んだ気がして、同じ時間軸で話すことができなくなってしまってもなお、学びをくれることにとても嬉しく感謝の気持ちが湧きました。
いくつになっても学び成長することが幸せであること
学びとは”勉強して資格を取る”みたいなことを言いたいわけではなく、人間として生まれて歳を重ねる日々のなかで、”気づき”を得続けていくことをここでは意味しています。
定年後のおばあちゃんは、園芸やボランティア活動、孫の世話、趣味、旅行など、とにかくアクティブでした。
教育ママだった人が私には成績ばかりではない個性を見てくれる存在へと変化したのは、どれだけ歳を重ねても新しい価値観を受け入れることをしていたからなんだろうなと、今ならわかる気がしています。
働く世代ではなくても、お母さんになってもおばあちゃんになっても、学び成長を求めることを先人として証明してくれたんだなと思っています。
伝えられることは伝えられるうちに行動すること
おばあちゃんとのお別れについて、悲しさよりも感謝が大きいからとてもスッキリしています。それでも一つだけ後悔している時期があります。
それは社会人になった時期です。
この頃は世界が一気に広がって、価値観が大きく変わっている時期で、自分の世界が一番楽しくて大事で、新しい価値観こそ正しいと思っていました。だから時々電話をくれるおばあちゃんの話は、変化がなくてつまらなくて、聞いてくれる質問も仕事のことばかりで、当時は仕事が好きじゃなかったので、徐々に大好きだったおばあちゃんの家に行かなくなっていました。
歳を重ねて変化に不安や寂しさが増えていくことに気付けなかったことは、時を戻すことができたらなと振り返ることです。
それでもこの出来事を今は学びに昇華できたので、
限り在る時間を大切に、伝えたいことは思い残しなく伝えるように、行動できることはしていくように、そういう生き方ができる人で在ろうとしています。
時間を超えて
長々と書きましたが、伝えたかったことは、
「受け継ぐ」とは直接的な場合もあれば、ときが経ってふとわかることもあるのだということです。
もうおばあちゃんと話すことはできません。
痴呆が入ってしまったおばあちゃんと話しているときも、身体はここにあるけれど、おばあちゃんの見ている世界の時間軸は遠い過去にあって、私達の今世での出会いは、私にとっては現在の視点で、おばあちゃんにとっては未来の視点な感じがしていました。
それでも「想い」は受け継ぐんだなと思っています。
それは人を通して、大事にした物たちを通して。
ありがとう、おばあちゃん。
亡くなったらお墓はいらないけれど、生きざまを記せたらと思ったこの一週間をまとめとして、おしまい。