BRIDGE⑤~ギルス~
シスターン島に拠を構える、エクナ諸島群最大規模の魔術師相互扶助組織、魔術師団<氷壁の記憶>。
その師団長アールが団員ギルスを伴い、シスターン領主の館を訪れていた。
シスターン島はシスターン領やヤクタ領など4つの領地に分割され、4人の領主によってそれぞれ統治されている。
各々の領主たちに領土的野心は無い。と云うより極北の地であるシスターン島は鉱物資源・農業生産力ともに乏しく、他領地に武力を以て奪うほどの価値が無い。そもそも戦争を仕掛けるだけの武力も無い。大規模な軍隊を維持出来るだけの国力が無いのだ。
このような無い無い尽くしのシスターン。いがみ合うよりも各々協力して自領を治めた方が遥かに生産的であり、合理的だ。厳しい自然が、領主間の結束を強くしていた。
4人の領主の間に上下関係はなく、あくまで対等だ。が、シスターンが国と云う体を保っている以上、対外的には代表者たる国家元首が必要だ。
時の<氷壁の記憶>師団長を立会人として、4領主の間で協議が行われた。そして、島でも比較的他国との交流が盛んな港湾都市リシュトを擁する、シスターン領の領主を対外的な国家元首として選定すると云うことで、領主間の合意が形成された。
国全体に関わる事柄については4領主の合議により方針を定める。が、最終的な決定権については国家元首に委ねられる、と云うことで話し合いは決着した。
そして協議に立ち会った縁により、<氷壁の記憶>の師団長が国の宮廷魔術師に就任する運びとなった。但し師団の運営が本業であるため専任ではない。あくまで顧問の宮廷魔術師、と云う形だ。
そうした経緯から月に一度、アールは王宮も兼ねたシスターン領主の館を訪れ、国家の業務運営に助力している。今回ギルスを伴って来たのは、彼と彼の妹弟子にまつわる特殊な事情ゆえだ。
<氷壁の記憶>本部施設には、師団開祖の記憶が『情報』と云う形で保存され、代々の師団長にのみ継承されている。
だが先に起こった<氷壁の記憶>とそれに敵対する組織<破壊の翼>との闘争に巻き込まれたギルスと妹弟子チェリーの2人は、ひょんなことから<氷壁の記憶>開祖の記憶情報を望まざる形で獲得してしまった。
最終的にはギルスとチェリーの2人が次期師団長候補として<氷壁の記憶>に入団すると云うことで、騒動は決着した。
今回は師団長の職務の一環、と云うことで、顧問魔術師の業務見学のためギルスを伴ったと云う次第だ。現師団長と次期師団長候補2人が共に行動することは組織の危機管理上問題があるため、とりあえずはギルスのみの同伴となった訳だ。
時間は<破壊の翼>との決着後。カシア、アルフレッド、バートが続けざまにベルリオースへと旅立って、暫くのちのことである。
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門兵に挨拶をし、領主の館へと入館するアール。ギルスも会釈をして後に続く。
どうやらアールは顔パスのようだ。毎月来ているのだ。それも当然か。
領主の執務室へ向け、館の中を進む2人。やがて目的の部屋へと辿り着いたのか、アールが両開きの扉をノックする。
……この部屋に辿り着くまで、館の使用人や衛兵に殆ど出逢わなかった。他国に比べ、領主邸に出入りしている人間の数が圧倒的に少ないのだ。やはり極地の島。人材の不足は深刻な問題のようだ。
室内から、入室を許可する女性の声が聴こえた。返答ののち、アールは扉を開け中へと入る。
ギルスも入室し、扉を閉める。中で待っていたのは、執務机に座るひとりの女性だった。
齢の頃は40歳を少し過ぎた頃だろうか。加齢による容貌の衰えが見られるとは云え、未だじゅうぶんに美しい。美貌だけでなく、知的で落ち着いた雰囲気をも漂わせている。
シスターン領領主にして現シスターン国女王・レティシア。当年取って43歳、独身である。
「一月振りでございます女王陛下。本日は以前にお話し致しました通り、後進を1人伴って参りました。我らが師団の次期師団長候補たる若き希望(ホープ)、ギルスにございます」
「お初にお目にかかります陛下。ただ今ご紹介にあずかりました、ギルスと申します。若輩の身なれど、以後お見知りおきいただけると幸いです」
ギルスが、完璧な宮廷の礼儀作法で一礼する。
「お久し振りですアールさま。そして初めましてギルスどの。私はシスターン領領主レティシア。お二方とも本日はよろしくお願いいたします」
レティシアがそう云って緩やかに微笑む。彼女は容姿のみならず、声や立ち居振舞いもまた美しかった。
「本日はギルスへの仕事の教授の意味もありまして、2人で取り掛かろうかと考えております。早速よろしいでしょうか?」
「勿論です。業務は山積みですから」
女王の許可を得たアールとギルスは、執務机の正面の長卓に着席すると、山積みとなった各種書類の精査を始めるのだったーーーー。
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「なあ爺さん……いや団長」
行政書類の精査を始めて暫し。たまりかねたギルスが、アールに話し掛ける。
それもやむ無し。ギルスから見ても、この国の行政事務の実情は酷いものだった。
必要とされる記録があまりに不足している。作成が間に合っていないのだ。作成済の書類にもミスが多い。
「はっきり云ってこれは、国家の体を成していない。正直良くこれで行政事務が回っていたな。逆に感心するぜ」
怖らく熟練した官吏が殆ど習慣的に仕事をこなしていたのだろう。必要最低限の業務が辛うじて維持されている感じだ。
「仕方ありません。私にとっての最優先事項は領民の生活の維持です。私は限られたリソースの殆どをそこに注ぎ込んでいるため、行財政事務はどうしても後回しになりがちです。ただ、後回しにしたとてそれを解決できるのも私しか居ません。それで……」
「ここまで仕事が滞留している、と云う訳か……」
どうやらこの国の人的リソースの困窮は、自分が想定している以上に酷いもののようだ。事情を理解したギルスは、アールに向き直ると。
「爺さんいや団長は、この現状を熟知していた筈だ。何故放置している? これは一朝一夕に解決できる問題ではない。専属の有識者、つまりは専任の宮廷魔術師が必要だ。何故さっさと就けない?」
ギルスの分析に。
「人材が居ないのじゃよ。確かに<氷壁の記憶>には多数の魔術師が所属しておる。だが彼らは遺跡やそこでの出土品の調査研究を目的に集った研究魔術師。云うなればオタクの集団、象牙の塔じゃ。彼らは世俗に興味が無い。政治にも経済にもな。唯一師団長のみが開祖の記憶の中の汎用的な政治学や経済学、歴史学の知識を駆使して宮廷魔術師の真似事ができている」
アールが答える。
「やっぱりそう云うことか……」
ギルスが頭を掻き毟りながら呟く。
ギルスは師団の他の魔術師に比べれば世俗を知っているつもりだ。だが、この難解な行政文書を解読することができているのは、やはり開祖の記憶に依る処が大きかったのだ。
そのまま暫し、誤りだらけの書類の束とにらめっこを続けていたギルス。が、やがて何かを決意したかのように顔を上げると。
「爺さん、いや団長。俺への師団長業務の指南は、今日限りで良い。これからはチェリーの育成に全力を注いでくれ」
「何じゃと? どう云うことじゃ?」
唐突なギルスの言葉に、アールが疑問をぶつけると。
「俺がこの国の宮廷魔術師になる」
「何……!?」
ギルスの宣言。驚くアール。
「今、爺さん以外に開祖の記憶を持つ者が2人居る。だが次期師団長は1人で良い。だったらこの状況を奇貨と考えるべきだろう。この国には、やはり専任の宮廷魔術師は必要だ」
「…………と、云うことだそうですが。いかがですかな? 女王陛下」
これまで黙ってアールとギルスの議論の推移を見守っていたレティシア女王。アールに話を振られると。
「それは……、勿論私としても優秀な宮廷魔術師は喉から手が出るほど欲しい人材です。ですが我が国には、常勤の魔術師を雇うだけの財力がありません。師団長の好意に甘え、顧問料をお支払いするのが限界なのです」
なるほど顧問制度を採用していたのは、どうやら師団側の事情、と云うだけではなかったようだ。
「先ほど帳簿を確認した。この国の財政事情は概ね理解している。俺は別に高給取りになろうとは考えていない。薄給で構わんさ。少なくとも、この国の懐事情が改善するまではな」
「この件に関してはやけに前のめりじゃないか? シスターン国はお主の出身国と云う訳でもあるまいに。何か思い入れでもあるのか?」
ギルスらしからぬ積極的な態度に、アールが疑問を呈すると。
「別に。ただこの国にはガイアーもチェリーも居るし、バートの郷里でもある。師団の皆だってこの国の国民だ。そんなシスターンの現状を知ってしまった以上、放置はできないと云うだけだ。幸い今の俺にはどうやらできることがありそうだしな」
何となく照れ臭そうに、ギルスが答える。
「それに俺は<氷壁の記憶>の内情も理解しているし、次期師団長は怖らく俺の妹弟子だ。俺が王宮側の人間になっていれば、この先政府と師団の連携はかつてないほど円滑に進むと思うが。どうだ女王陛下? 俺を雇う気はあるか?」
ギルスの問い掛けに、レティシア女王はアールと顔を見合わせると。
「……是非、よろしくお願いいたします」
「了解だ。そんな訳だ爺さん、いや団長。事後承諾と云う形になっちまって申し訳ないが、師団は今日限りで辞めさせて貰う。チェリーのこと、どうかよろしく頼む。立派な師団長に育ててやってくれ」
ギルスがそう云って、アールに頭を下げる。
「構わぬ構わぬ。次期師団長、能力的にはお主だったが、師団員からの人気は圧倒的にチェリー嬢ちゃんの方が上じゃったからな。皆も喜ぶだろうて」
「悪かったな。…………今まで世話になったな。ありがとう、爺さん」
「なんの。お主こそ頑張れよ。この国の未来、お主に託したぞ」
そう云って固い握手を交わす、ギルスとアールであったーーーー。
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その日から、質素ながらも個人の執務室を与えられ、宮廷魔術師としてのギルスの新生活が幕を開けた。
彼がまず最初に取りかかったのは行政文書の作成と整理だ。本来備えておくべき文書が日々の業務に追われ揃えきれていない。これらを女王と分担し、作成する。
それが終わると次は予算と業務の精査だ。
「国民の税負担をこれ以上軽減することは出来ないな。国家の屋台骨が揺らいじまう。その代わり、業務を見直して国民への還元を増やすことは可能か……」
「<守護兵>の予算は減らさない方が良い。むしろ増やすべきだろう。<守護兵>の活動は治安に直結する。治安が維持されていれば、人々の経済活動は活発化する。国民生活の質の向上にもつながり、国民の生活満足度も上昇する筈だ」
「いくつか思い付いた施策がある。業務を整理して予算が確保できたら、実行に移そうかと考えているんだが……」
「実は私にも構想があります。財源も人員も時間も足りず、これまで塩漬けになっていたのですが……」
「よし、それを全部俺に伝えろ。陛下、あんたの構想は、俺が残さず実現してやる」
ギルスは女王とともに、行財政改革を精力的に次々と実行していった。
新しい施策を実行する際は、まずシスターン領で試験的に施行した。思うように運用できなかった際は、失敗の原因を精査、改善策を模索し、再施行した。中には施策そのものを放棄せざるを得ないものもあった。
シスターン領で一定の成果を上げた施策については、その実績を材料として、他の3領地にも施行を勧奨した。
領主たちも、成果の不透明な海のものとも山のものともつかない施策であれば、導入に二の足を踏むだろう。だからこそのシスターン領での成功例だ。
既に成果を上げていて、領民の生活満足度の向上と行財政の効率化を両立できる施策となれば、各領主とも喜んで施行に協力した。
またギルスは、難解な行政の仕事を分業化・マニュアル化し、複雑で創造的な業務と単純で定例的な業務に切り分けた。
これによって、業務のすべてに熟練した官吏が関わる必要が無くなり、また、若い未熟な官吏に分担される仕事が増えた。人材不足の緩和と人材育成を両立した、良策である。
こうして宮廷魔術師ギルスは、就任からわずか3年で、国の行財政改革を次々と推し進めていったーーーー。
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シスターン領主の館を、<氷壁の記憶>団長アールが訪問していた。ただし彼は国の顧問魔術師の任を辞して久しいため、専ら女王の茶呑み友達としての訪問だ。
勧められるままに薬草茶を啜りながら、彼の持ち出す話題は専らこれだ。
「いかがですかな? ギルスの奴は?」
「彼はとても優秀ですわ。就任からたった3年で、国民の生活満足度は驚くほど向上しました。それにわずかずつですが財政も確実に上向いています。彼無しに今のシスターンは無かったでしょう。……相変わらず態度が大きいのが難点ですが」
ギルスは誰に対しても敬語を使うことがない。女王に対してもだ。それゆえ国民からは、『王様より偉い宮廷魔術師』などと揶揄されている。
「悪かったな。ともに仕事をするとなると、虚飾や虚礼などは時間の無駄だ、と云うのが俺の考えでな」
2人がまさにギルスの態度を話題に上げていたその時、箱いっぱいの書類を抱えた当のギルスが入室してきた。
「私は構いませんよ。もう慣れました」
と、女王。
「相変わらず顔色が悪いなギルスよ。ちゃんと寝とるのかの?」
アールにそう指摘されたギルスは、ここ3年ほど眼の下の濃い隈が常態化していた。
「ん? ああ。毎日2時間くらいはちゃんと仮眠を取っているぞ」
「それは睡眠のうちに入らん」
「私もそう云っているのですよ。ギルス、貴方はこの3年間、シスターンで最も忙しい人間です。だからこそ休憩や休暇はしっかり取ってくれないと。貴方に倒れられたらそれこそ政府はたちどころに機能不全です」
アールの指摘に便乗し、女王がギルスの働き振りに苦言を呈する。
「俺がシスターンで最も忙しい人間と云うなら女王、あんたはこの国で2番めに忙しい人間じゃないか」
「私はきちんと休息を取れています。貴方のお蔭でね」
「仕方無かろう。仕事は無限、時間は有限。時間はどれだけあっても足りないんだからな」
「であればせめて、相応の俸給を受け取ってください。聞いてくださいアールさま。ギルスはこれだけ国に奉仕しておいて、<守護兵>の初任給程度の俸給しか受け取らないのですよ!?」
「なんと。本当かギルス?」
女王の指摘に驚くアール。
「最初に約束したからな。この国の懐事情が改善するまでは薄給で良いとな。まだまだ予算は足りない。非常事態の際に、全国民をせめて3巡り程度は食わせられるだけの食糧を備蓄しておきたいところなんだが、目標額にはまだまだ遠い。だいたい俺が高給を貰ったところで使っている時間が無いからな。意味が無い」
「だから、休暇を取ってくださいってば」
「いや。休暇を取ったところで睡眠が最優先だろう」
女王とギルスの口喧嘩。アールにとってはいつもの光景だ。
「そう云えば、話は変わりますがベルリオースの王妃から来訪したい旨の打診がありました。目的はギルス、貴方との会談だそうです」
「隣国の王妃が俺との会談を希望? なんで!?」
「聞くところによると、ベルリオースのモナリ王妃殿下は宮廷魔術師を兼任しているそうです。情報交換を主とした交流を希望されているそうで」
「王妃と宮廷魔術師を兼任!? ほら見ろ! 俺より忙しそうな奴が世の中には居るじゃねえか!」
「何がほら見ろですか!? そんなことでドヤ顔してないで、ちゃんと休暇を取ってください」
「そんなこと云われてもな……。そうだ爺さん、確か以前<破壊の翼>と闘っていた時、短い睡眠時間でもじゅうぶんな休息が取れる霊薬をくれたことがあったよな? あれを寄越してくれよ?」
ギルスが、かつてアルフレッドたちとパーティを組んでいた時に、アールから提供された霊薬のことを思い出す。
「駄目じゃな。あれは一回限りの摂取では人体に影響は無いが、元々中毒性の強い霊薬でな。日常的に服用しようものならいずれ依存症となり、脳を侵されやがて廃人になる」
「怖っっ!! そんなもの呑ませてたのかよ!?」
「だから、1回限りの使用なら無害なんじゃって」
ギルスとの掛け合いを楽しむアール。やおら眼を細めると。
「ほんに忙しそうだのう、ギルスよ」
「ああ。お蔭でこの3年、魔術の訓練は殆どできていない。魔術師としては、そうとうに腕は鈍ったと思うぜ」
「ま、宮廷魔術師に求められるのは頭脳であって魔法戦闘力ではない。軍事力としての魔法が必要なら儂らに声を掛けい。戦闘は得手ではないが、まあ力になってやるぞい」
「ああ。そんな事態にならなきゃ良いが。いざと云う時はよろしく頼むぜ爺さん」
ーーーーだが。『そんな事態にならなければ良い』とのギルスの祈りも空しく、『そんな事態』は起こるのであった。
この館に詰める衛兵の1人が、大きな足音を立てそして大声を上げながら、領主の執務室へと飛び込んでくる。
「領主さま!! 宮廷魔術師さま!! 大変です!!」
よほど慌てていたのだろう。ノックも挨拶も忘れ飛び込んできたその兵士は、大きな声で。
「海が!!!! 我が国の航路が……!!!!」