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BRIDGE⑦~次元浸蝕~

その世界に、色は無かった。

白い空に、一面に広がる白い沙漠。四方を見渡しても世界に果ては無く、永遠とも思える地平線が続くのみだ。

その世界に果ては無く、そして、何も無かった。

可視化した虚無。そう、表現するのが相応しい世界だった。

その沙漠の中央ーーいや、果ては無いのだから何処が中央なのかは判らないがーーに、1人の人物が居た。

この世界の唯一の『存在』。彼は、金属質の十字架に磔にされていた。

ぴくりとも動かず、眼を閉じている。意識が無いのか。眠っているのか。あるいは。

死んでいるのか。

我々は、その人物を知っている。

かつて内戦の渦中にあったロベールで、平和の尊さを説き、戦災孤児たちに教育を施し、そして。

大切なものたちを蹂躙され、闇に堕ちたその人物を知っている。

我々は、彼を知っている。

邪術師マルホキアスを知っている。

ーーーーと。

彼だけのこの世界に、闖入者が現れた。

そいつは、なんとなく人の形に凝った、不定形の影色の塊だった。

滲む影色は、人の悪意。

<悪魔>ーーーー。そいつは、そう呼ばれる存在だった。

<悪魔>は周囲に意識を向けた。そして磔にされたマルホキアスの存在を認めると、ゆっくりと彼の方へと近付いて行った。

<悪魔>がもう少しで、マルホキアスに触れようとした、まさにその時ーーーー。

世界に、激震が走った。

世界全体が予期せぬ強大な力に曝され、空間のあちこちにブロックノイズが発生する。<悪魔>が、己を遥かに凌駕する力の存在に、狼狽する。

ーーーーと。

空間がひび割れ、世界が綻びる。ひび割れの向こうに覗くのは、渦巻く純黒の混沌。

次元に生じた亀裂から、長い爪を持つまがまがしき巨大な手が出現した。そいつは戦慄き怯える<悪魔>を一掴みにすると。

一握のもとに、<悪魔>を握り潰した。

マルホキアスに接触する筈だった<悪魔>は、黒い煤となって消滅した。

亀裂から、<悪魔>を握り潰したものが姿を現す。そいつは<悪魔>以上に濃密な、闇色の塊だった。

“あの女……。己が完全敗北の運命を捩じ曲げるため、我をこの次元に放り込んだ、か……。なるほど、中々に興味深い”

『闇』が、独言とともに含み嗤う。

そして『闇』は、マルホキアスへと意識を向けると。

“いつまで眠っている。眼醒めよ”

一喝する。すると、この3年いちども意識を取り戻すことの無かったマルホキアスの両眼が、かっと見開かれた!

「ここは……!? 私はいったい、どうなっている……!?」

ただちに現状を把握出来ず、マルホキアスが首を巡らし周囲を見渡す。

“汝、己が状況を理解しているか?”

『闇』が問う。

「私は……マルホキアス! <破滅の預言者>の生き残りで、確かドントーと闘っていて……そうだ! <悪魔>の能力が発動せず、私の躰は真っ二つに両断された! 私は、死んだのか……? ここは、黒の月なのか……?」

“残念ながら、答は否だ。汝の同胞(はらから)どもが、汝の命を掬い上げた。辛うじて、だがな”

「私の仲間……!? レモルファスか! では、ここはいったい……!?」

“此処は汝の心象風景を具現化した固有結界内。……云うなれば、魂の座よ”

「つまりは、私の精神世界か……。私の精神世界なら、何故私は拘束されている? 何故身動きが取れない?」

“汝は<悪魔>と契約せし者。契約者たるを辞すること能わず。されど汝が契約<悪魔>は既に黒の月へと帰還した。故に汝は眼醒めること敵わず”

「<悪魔>が居ない……!? 本当だ! いったいどうなっている!? 何故<悪魔>は私を残して黒の月へ……!? 奴も契約に縛られているのではなかったのか!?」

“然り。だが汝は戦の中で一度確実に死んだ。<悪魔>は汝の死亡を認定したが故に、契約の終了を宣言し黒の月へと帰還した。その後汝の同胞が汝の亡骸に手を尽くし、辛うじて心の臓の再起動に成功した。だが一度帰還した<悪魔>が再び地上に戻ること能わず。少なくとも、汝の寿命の内には、な”

「そう云うことか……!! やはり私はあの時一度死んだのだな。それで<悪魔>との契約が喪われた。その後私の肉体が息を吹き返したとて、<悪魔>が黒の月に帰還した後では手遅れ、と云う訳か。私が眼を醒ますには、もう一度別の<悪魔>と契約する必要がある」

マルホキアス、ようやく己が現状を理解する。

「お前は事情を知っているようだが? 私はいったいどれくらいの期間眠っていた? いや、眠っている?」

マルホキアスが、改めて『闇』に問う。

“千と百日に少し足りぬ、と云ったところか”

「3年か……。それほどの期間、私は眼を醒まさなかったと云うのか……」

“<悪魔>との契約だけが理由ではない。汝の肉体の修復には、汝の同胞どもも随分と骨を折っていたようだぞ”

「レモルファス……。私が眼を醒ますと、信じてくれているのだな」

マルホキアスは、盟友の献身に感謝する。

「それで? 事情通のお前はいったい何者だ? ずいぶんと私のことに詳しいようだが……?」

“我か? 我はかつてオルガと契約せし<悪魔>よ。オルガは勿論知っておろうな?”

「勿論だ……!」

オルガとは、かつての<破滅の預言者>の首領だ。マルホキアスを組織へ勧誘した人物でもある。アザリーたちとの闘いの中で落命し、既に故人であるが。

だが。

「お前は、やはり<悪魔>だったのか……。それはそれとして、私はオルガを知っている。だからこそ云える。お前は、オルガが契約していた<悪魔>などではない。お前はその……強過ぎる。オルガの力では、お前ほどの<悪魔>を召喚し、契約することなど出来なかっただろう」

今、こうして精神の状態で対峙して良く判る。この<悪魔>の強さは異常だ。この<悪魔>はただそこに在るだけで、信じ難いほどの圧倒的な存在圧を放っている。魂が凍る、と云うのはこう云う感覚を指すのだろう。

恐怖に呑まれず、正気を保っているだけでも精一杯だ。

“いや。我は偽り無くオルガと契約せし<悪魔>よ。但し、汝の知るオルガとは限らぬがな”

そう云って、意味ありげに含み嗤う<悪魔>。

「……? それはいったいどう云う……?」

“汝は知らずとも良いことだ。それより、我から汝に提案がある”

「提案?」

“汝、我と契約を結ばぬか?”

「なに……!!!?」

驚愕するマルホキアス。

「……判っていると思うが、私はお前の契約相手としては相応しくない。お前が力を振るう器としては、弱過ぎる」

“然り。汝が我を召喚し、我と契約することは不可能だろう。但し、契約の一方当事者である我が承諾していれば、話は別だ”

「私の弱さを理解したうえで、契約に同意すると云う訳か……。だが何故だ? そんなことをして、お前に何の益がある?」

“益か……。或る女が居た。女は用意周到に計画し、永い時を費やし万端の準備を以て一世一代の大戦(おおいくさ)に打って出た。だが結果は全ての目論見が潰え完全敗北を喫した。女はその結末を捩じ曲げるべく、我をこの次元に送り込むと云うイカサマに手を染めた。何でも我と汝が手を組むことでこの先の展開が大きく変わるらしい。『胡蝶の羽撃(はばた)き』と云う現象だな。まあいずれにせよ、汝には関わりの無い話だ”

「……? 良く判らんが、つまりお前が私と契約するのは、私とは直接関わりの無い何者かの思惑に基づく判断で、私はそのことを借りに感じたりする必要は無い、と云うことか?」

“然り。して返答や如何に?”

「……是非もあるまい。私は<悪魔>と契約せぬ限り眼を醒ますことはない。そして眼が醒めぬがゆえ新たな<悪魔>と契約することが出来ないと云う袋小路だ。そんな時お前のような強大な<悪魔>が自ら契約を申し出てくれているのだ。この僥倖を掴まずしてどうすると云うのだ。私の方から依頼しよう。私と、契約してくれるか?」

“受諾した”

この瞬間、<悪魔>とマルホキアスの契約が成立した。

と同時、彼を拘束していた金属質の十字架がばらばらに分解し、マルホキアスは白い大地の上へと降り立った。

その時、マルホキアスを襲う強烈な不快感! 揺れる馬車や船に乗ると襲われる『乗り物酔い』と呼ばれる感覚があるが、あれを百倍にして脳の中に詰め込まれたかのようだ。

「な……なんだ……これは……?」

堪らず膝をつくマルホキアス。口を押さえ、嘔吐しそうになるのを辛うじて堪えていた。

“ああ、それは次元震の影響だ。世界線の分岐点に立ち会うと良く起こる。案ぜずともじき治まる。歴史の分岐が確定すればな”

果たして<悪魔>の言葉通り、マルホキアスの不快感は時間の経過とともに嘘のように消えた。

「なんだったのだ? いったい……?」

口元を拭い、立ち上がるマルホキアス。<悪魔>の言葉の意味は正直良く理解出来なかったが、気を取り直すと。

「それで? 私はお前のどんな力を借りることができるんだ?」

マルホキアスが<悪魔>に問う。だが<悪魔>の返答は。

“残念ながら、汝我が力を行使すること能わず”

「なに……!? どう云うことだ!?」

“いみじくも先程汝自身が述懐した通り、汝は我が力を振るう器としては余りに矮小。ゆえに我が力借り受けること敵わず”

「そんな……! では折角契約したのに、私にはお前の力は使えないと?」

“代わりと云っては何だが、我が支配下にある<悪魔>どもを喚び出し、貸し与えることは出来るぞ。何か望む能力はあるか? 何でも申してみよ”

「なるほど……。ところで<悪魔>よ。お前は私の目的は理解しているのか?」

“ふむ。エクナ島の海底に封印されし<悪魔>の解放、であろ? オルガから訊いているぞ。その手順もな”

「そうか……。では私はこれから、<悪魔>解放の最終局面に臨もうと考えている。怖らく決戦の舞台は船上か海底となろう。ゆえに周囲の水や海、すべてを武器と出来る能力を望む」

“水と海を司る<悪魔>、か……。良かろう。適当な奴を見繕ってやろう”

その時。この『白い世界』全体を大きな地震が襲った! そこかしこで、世界そのものが崩壊を始めている!

「な、何だ!?」

“眼醒めの時だ。汝自身の覚醒により、もう間もなくこの固有結界は崩壊する”

「そ、そうか……。では、現実の世界でまた逢おう」

“うむ。後でな”

その時、マルホキアスが思い出したように。

「<悪魔>よ、お前名は? 私はお前を何と呼んだら良い?」

やがて、世界は崩壊し、周囲は真っ白な光に包まれるーーーー。

“我か? 我のことはーーーーエクセリス、とでも呼ぶが良い”

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