悲しみの乗り越えかた
母が旅立ってから、悲しくて寂しくてしかたがない。
当たり前と言えば当たり前だけど。
どうやら悲しみを乗りこえるにも体力と気力が必要のようだ。
母の旅立ちからの自分の変化
初めの1週間はショックで眠れなかった。
横になって目をつぶると、母の最期の顔が浮かぶ。苦しそうだった。何かできることは他になかったのか?最後を楽に過ごすためにわが家に呼んだのに・・・。最期の時の声掛けも、もっと何か言えなかったのか?申し訳ない気持ちになる。
私は神経が高ぶっていた。いくら高齢で、想定内の事だとしても私たちの目の前で、腕の中で大事な人が人生の幕を閉じる。わかっていたことだけど、悲しい。なかなかクールダウンができない。
初七日の法要後、疲れて横になっていたら母から呼ばれた。しっかりした、用事がある時の声だった。あまりにハッキリ名前を呼ばれたので目が覚めた。何を言いたかったのだろう?
2週目は空の巣症候群とでも言おうか、喪失感がすごい。ポカーンと心に穴が開いて、何もしたくない。ごはんさえ作りたくない。食べたくもない。仕方ないから外食した。でも、ふと涙が出てくるので外に出るのも気が進まない。そそくさと食べて帰る。
今まで一日3食、よくまじめにご飯を用意したものだ。母の好きなもの、食べやすいものを意識した。母のためなら作れて、夫や自分のためには作りたくない、っておかしい!
3週目は、ずいぶん落ち着いてきた。外食も時々するけど家でもちゃんとご飯を作る。そうじも、畑の世話もできるようになった。自分の勉強も再開。漢字ノートを開くと、母の亡くなった朝も私はちゃんと勉強していた。その時までは全く異変がなかった、ということだ。「急変することがあります」と常に言われていたけど、急すぎて気持ちが追いつかない。
三七日(みなのか)法要の時、妹が見た光景を話してくれた。
私と夫のもとへ母が現れて、深々とお辞儀をしたのが見えた、と言う。この話を聞いてみんなで泣いた。
あと一週間で三十五日を迎え、納骨をする。そしたら気持ちもずいぶん違うかもしれない。
この10年間の自分の変化
10年前に父を看取った時、まだ働いていた私は看護休暇の時間休を取った。
勤務を30分早く切り上げて病院へ向かう。車で1時間ちょっと走り、それまで付き添っていた母か妹と交代する。途中で買ったごはんを食べて、父とおしゃべりしたりマッサージをして過ごす。疲れたらソファーで少しの時間、横になる。
夜の時間は長いので、いろんな話ができた。父は食事もできない状態だったが、会話を楽しむことはできた。そして水、ガリガリ君アイス、氷、リンゴジュースを口にした。
朝、母か妹と交代して出勤。車で1時間ちょっと走り、30分遅れて勤務に就く。最後まで勤務して(残業はしない)帰宅し、ゆっくり寝る。
こんな事を5回ほどしたところで父は亡くなった。
たった数回、看護らしきことをさせてもらった。
私は忌引き休暇を取って母に付き添い、市役所や年金事務所、銀行をまわった。休暇が明けると忙しい日常に戻って行った。
今考えると、その頃は体力と気力があったと思う。
振り返って思うこと
母が亡くなってガックリしているのは、体力と気力が衰えているから。しかし考えようによっては、悲しみに浸る余裕があるということだ。私につながる人たち、子や孫などに心配がないからでもある。
父も母も、姉妹そろって看取ることができて良かった。私や妹たちの身に何か起きればどれだけ母を悲しませたろうか?母を悲しませずにすんだことも、良かった。
母の人生の最後を、一緒に過ごせて良かった。母の強い面もおちゃめな面も、弱さを素直に出す面も見ることができた。
母の何気ない言葉でハッとすることもたくさんあった。自分の良さに気づかせてもらうこともあった。
私たち姉妹の絆が一層深まったこともありがたい。父のこと、母のことを思い出して語り合える。
父は病院で看取ったけど、母は私の家で看取ることができた。24時間そばにいたから受け止め方も違うのかもしれない。
両親とも、姉妹そろって看取るなんて幸せなことだ。そう気づいたら、悲しみの涙から感謝の涙に変わった。
悲しみの乗り超え方
法要ごとに少しずつ気持ちが変化していく。納骨をしたら忌明けだ。その次は百か日法要。百か日法要の意味は「悲しみに一区切りをつけ、日常に戻っていく」ということらしい。
それまではうんと悲しんで良いんだ、と思ったら気が楽になった。
悲しみを乗りこえるには時間が必要だと、昔からわかっていたんだな。
写真の母に向かって「みんなでちゃんとするからね!心配要らないよ!大丈夫!任せてね!」とつぶやいた。これって、生きている時も良く言った言葉だなあ・・・。
百か日までは悲しみと向き合って、その先はけじめをつけて日常に戻ろう。それまではもう少し悲しみに浸って良いかな?