安部公房ー『箱男』論、その2ー
安部公房ー『箱男』論、その2ー
㈠
『箱男』論を進めているが、本当に変わった小説だと思う。変わった、いや、寧ろ、異常な世界観だと思う。こう言う小説を、映画化するには、かなり難しいことだと思うが、映画『箱男』が完成しているという事で、とても楽しみである。ところで、安部公房は、この小説の構造を、つまり方法論を、ほとんど隠した侭、それこそ箱男の様にして、読者を煙に巻いている。所謂、実験的小説だとも言え、その実験が見事に成功した小説だとも言えよう。話が、少しずつ断片的に述べられているのも、特徴的で、それこそ、全国各地に箱男がいる様な感覚を、読み手に与えて来る。非常に複雑な構造で、とてもじゃないが、どういう構造で書かれたのかは、知る由もない。それでも、重要箇所を引用して、更に考察を進める。
㈡
この文章にも、トリックがある。箱男だったという事実が、本当で、更に、「箱を脱いで、ぼくの素顔を見せ、このノートの真の筆者が誰であったのか、真の目的はなんであったのかを、君にだけは正確に知らせておきたいと思う。」という風に言われると、箱男が存在していたことを、真実だという風に言いくるめてくる。安部公房が、箱男だった訳がない、ましてや、本当に箱男がいるはずがない、そんな思いを、断絶させ、嘘の世界を本当の世界に変容させてしまった、安部公房の意図が見え隠れする。
㈢
この様に聞かれると、半ば読者は発狂しそうにもなる。箱男など初めからいなかったのだ、と言ってくれれば、読者の焦燥感も落ち着くが、「いったい誰が、箱男ではなかったのか。誰が、箱男になりそこなったのか。」と問われれば、もう発狂の手前である。つまり、箱男は居る、ということが、事実だとすれば、街中のどこかに、箱男が居るということになる。安部公房は、どこまでトリックを仕掛け続けるのだろう。読者を小説に引き付けるのだろう。これはやはり、前衛文学なのだ。だから、理解するというよりも、一種の娯楽として受け止めた方が良い。そうでないと、真剣に読めば読む程、頭がおかしくなる。ということは、それだけ、ハイレベルな小説だ、という明証になる。これだけ読者を飲み込む小説を、自分はほとんど知らない。
㈣
安部公房ー『箱男』論、その2ー、として述べて来たが、『箱男』論も、ここで終わることになる。やはり『箱男』という小説は、エンタメである。ヤバい仕掛けが沢山あって、没入すればキリがない。もうほとんど、小説の渦に飲み込まれるところだった。こうして考察するが故に、距離を保って居られたのだと思うと、安堵した。何度も述べているように、『壁』、『砂の女』、『箱男』、この三作品は、安部公房文学の中でも異彩を放っている。計算し尽くされた構造に、破綻が見られないのである。だから、『箱男』の映画化は、至極当然な成り行きだったともいえそうだ。安部公房ー『箱男』論、その2ー、もここで終わるが、非常に危うい小説であり、その危うさが、世界を覆う時、箱男は街に出没するのかもしれない。以上で、安部公房ー『箱男』論ー、を終えようと思う。
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