萩原朔太郎論ー論者達を客観的に見るー

萩原朔太郎論ー論者達を客観的に見るー

萩原朔太郎論というものは、大量に書かれている。勿論、有名なものから、影に隠れたものまで、それは多岐にわたるのであるが、萩原朔太郎の作品を固有に論じたものと、萩原朔太郎の人生と作品を結び付けて論じたものに、大きくは二つに分けられるであろう。無論、こういった傾向の分岐は、どの小説家や詩人を論じられる時にも発生するものである。萩原朔太郎論は、その内実を思慮すればするほど、どうやって論じるか、という切り口が難しい。小説ならまだ小説家の人生と照らし合わせることが出来るが、詩と詩人の人生を照らし合わせることは、容易ではない。

ここで、述べた様に、萩原朔太郎の作品を固有に論じたものと、萩原朔太郎の人生と作品を結び付けて論じたものに、論者を分ける時に、やはり高質な論文とされるのは、作品を固有に論じたものになるだろう。特に、萩原朔太郎の場合、宮沢賢治の様に自然と宗教とに結び付けたり、中原中也の様に散文詩的詩のリズムに焦点を当てたりすることが、つまり傾向を持って論に臨むことが、萩原朔太郎の場合は難しいのである。『月に吠える』から『氷島』まで、一貫してそれは言えるだろう。風景も実感を持つほどには迫ってこない、強烈な宗教語もない、リズムも詩によってバラバラである。

こういった状況だから、萩原朔太郎の論者達は、苦労に苦労を重ねて来たのである。口語自由詩の確立者であっても、そう言われるだけの形式は持つものの、意外と特徴がないのである。それ故、論じることが、その角度を持つことが、非常に難しいのだ。萩原朔太郎論ー論者達を客観的に見るー、と題しているが、論者達を見るに、右往左往している。ただ言えるのは、萩原朔太郎は、非常にカッコいいのである。語彙が足らずとも、何か詩の中で、或る種のカッコいいセンスを持っている。ダサくないのである。それ故、美学的観点から見るに、論者達はそこに焦点を当てた様に思われる。事実、萩原朔太郎論者の論のタイトルは、センスが良いものが多く、読んで居て、明らかに他の小説家や詩人の論者達とは異なる美文で、萩原朔太郎を論じているのである。萩原朔太郎論ー論者達を客観的に見るー、という事で述べて来たが、客観的に思い浮かぶのは、前述したような、美的センスのある論者が多い、ということに尽きるのではないだろうか。

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