『俺は失敗作』
1『俺は失敗作』
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気付くのが、随分遅すぎたみたいだ。粘土で出来た壁を越えることくらい、簡単だと思って居た、という訳だ。何やら、漆黒の病魔が、俺に痛烈に襲い掛かって来たかと思うと、思うが早いか、俺の身体は、浸食され始めた。
どこに繋がるかも分からない、精神の扉を閉じて、右往左往する、ベテランの老人たち。俺は、眩暈がするので、上方を見ない様にし始めた。何、生きるさ、死ぬにはまだ早い。自己の変革のために、少々、言葉を使って、人を欺いてみるか、みないのか。
2『俺は失敗作』
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叶えられる夢もない。ただ、安穏としながら、小説を書いて居る。何の利益もないのに、それでも、脳内で、芸術至上主義の言葉が反芻され、離れない。孤独な伽藍洞、言葉が何になるのか、その重みすら、俺の言葉は、小説の彼方へ。
耐えざる神の声。小説を書け、小説を書け、小説を書け、俺は失敗作なんだ、と言っても、神は言う、小説を書け。誰のために、それすら分からない、何のために、自我の克服のためか。そうなのか。
3『俺は失敗作』
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どうして地球は、存在しているのか。宇宙とか言われても、訳が分からない。知った気になったやつが命名したのが、宇宙だろう。もし科学が異なって板なら、月へも行けなかったはずだ。そんな愚弄されそうな、俺は失敗作という小説。
如何にして、言葉を、発語として使うか、というのは大きなテーマだが、こんなこと言って居るやつは、つまり俺のことだが、やはり失敗作だ。失敗作な俺は、小説だけは、失敗したくない、そんな本音がある。
4『俺は失敗作』
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俺はやはり、失敗作の様だ。何もかもが、上手く運んだ試しがない。生まれつきの馬鹿なんだろうな。そして、誰とも長く関係が続かない。何かに憑依されて、失敗作になったのか、その根源の原因が判明すれば、もっと上手く生きられるのにな。
どうしてこれだけ、俺が罰を下され、罪悪感の世界に佇んでいることを、誰とも共有できないのか。萩原朔太郎や宮沢賢治を思い出す。彼らとて、失敗作的苦悩の孤独に居たはずなんだ。彼らは、芸術で、それらを克服し、世に出たことが、何よりの生き方だった。
5『俺は失敗作』
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どうしようもなく、救いようのない俺の現状は、芸術で昇華し、利益を得ることも儘ならない。どうやって生きれば良い、軽犯罪で、刑務所で食わせて貰えれば、生きて行けるだろう。親が死んだら、悲しむ人も居ないだろうから、やはり軽犯罪か。
借金するより、軽犯罪を思い付くなんて、余程お金がないと思われるだろうが、事実、金はほとんどないよ。何故かって、俺が失敗作だからさ。分かってくれよ、こういう人間も、生きて行かねば、ならないことを。
6『俺は失敗作』
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俺は至って、失敗作なんだ。何がかって、聞かれても、上手くは答えられないけれど、とにかく人間と関係を維持するのが非常に下手なんだ。そういう訳で、曇りのち晴れ、という言葉は相応しくない、曇りのち曇り、と言えば適切なのか、そんな感じだ。
雲の大群が、空を覆って居る。戦争中は、爆弾を積んだ飛行機が飛ぶ。俺は想像にも耐えられない。そうして、ロシアの戦争も止められない、失敗作なんだ。山が多いこの日本は、何故、失敗作の俺を地上に落としたんだろうか。
7『俺は失敗作』
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失敗は失敗でも、大失敗の俺は、誰にも相手にされずに、孤独に死んで行くだろうが、それがどうしたと、神は言うだろう。お前の無力だと裁断するだろう。耐えられない俺は、旅に出るしかない、どこか、遠く遠くの、果て無い場所へ。
これくらいのことをやらないと、俺は失敗作の侭なんだ。だからと言って、失敗作だと自認しているのだから、どうしようもない、救いようもない、何なら、社会の底辺に居るんだ。俺は、失敗作なのだから。
8『俺は失敗作』
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俺は随分、失敗作さ。この世の中において、ただ一人、置いてけぼりの、虚体なのであるから。是非、という勧誘に答えて、入りこんだ柔軟には生きられない世界が、俺を変革しようとする。ただ、絶望の虚空を見ては、何か言葉を呟くのが落ちだろう。
常識、というものの範疇に入らない、自由というものは、しかし倫理によって阻害されるんだ。そういう、云わば、一種の反逆というものが、今度は不自由になって、常識的釈迦愛に適応できなくなるんだ。その前に、言って置く、俺は失敗作。
9『俺は失敗作』
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どうしようもない俺は、道端を見ては、ゆっくりしたくなる、放浪者なのであるが、それは置いて置いて、ともかく、俺が言いたいのは、俺は失敗作だということだ。それ以外のことは、述べることすら、おこがましい訳である。
地を這う動物の如き、その生命体が、何れは、独立して、歩き出す様に、成功作としての、地を這う動物に対して、俺は至って、失敗作、であるからして、眼前の壁を壊せども、未来は見えないのである。
10『俺は失敗作』
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第一期、俺は失敗作も、ここで終焉を迎える。第二期があるかどうか、それは俺が失敗作だという事実が地続きでまだ、未来に有れば、俺はそれを真実として、第二期の俺は失敗作を、書くだろう。事の運びというものは、そういうことなのである。
而して、ここに、表明した、第一期の終焉と共に、俺は失敗作だということを、表明出来たことが何よりの成果だったと思う。少しは、気が楽になったさ。マクベス論の読みすぎで、少しズレて居た過去の失敗作である俺を、ここに葬り去ろう。まだ失敗作であれば、俺は第二期を書くだろう。予定は、未定なのである。