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『黒木渚論』―黒木渚、その芸術的可能性―

『黒木渚論』―黒木渚、その芸術的可能性―

かいわれのせか

『黒木渚論』―黒木渚、その芸術的可能性―

今回も、【第一章】は、小説家になろうから、抜粋したが、未発表の文章が、かなりを占めている。どちらかというと、文学寄りの内容でもあるが、総じて、タイトルにある様に、芸術的可能性について述べた。【第二章】は、今回もnote、から。こちらも未発表のものが多い。全体的に音楽家黒木渚の歴史的エッセイの様になったが、熟筆出来た様に思う。一般人の自分が、芸術家の黒木渚さんについて、芸術的可能性などと言うのは烏滸がましいが、精一杯書けたと思って居る。【第三章】は、『おわりに』とした。本論の総括として、述べさせて頂いた。

本論は、『黒木渚論』―黒木渚、そのイニシアチブに沿って―、を出版してから、新しく書き上げた論が多数ある。『黒木渚論』―黒木渚、そのイニシアチブに沿って―、を購入頂いたり、読んで頂いたりしたことが、執筆衝動となった。改めて、購入頂いた方々、読んで頂いた方々に、感謝の意を述べたいと思います。そして、黒棘で、野垂れ死にしないようにと、気を掛けて頂いた黒木渚さんに、感謝します。野垂れ死にしないペースで、活動します。

※執筆にあたり、多少の加筆・修正を加えましたことを、ここに記して置きます。

目次

【第零章】

『はじめに』

【第一章】

『黒木渚『マトリョーシカ』論・・・宮沢賢治の『注文の多い料理店』との比較』

『黒木渚と埴谷雄高の類似性』

『黒木渚論・・・器器回回のライブで、購入特典となった、ポスターについて』

『黒木渚論・・・音楽界の芥川賞的位置』

『黒木渚論・・・黒棘におけるユーモア』

『黒木渚論・・・その初期衝動を巡って』

『黒木渚論・・・武道館と、日向ワンマンライブ器器回回』

『黒木渚論・・・耽美についての私見』

『黒木渚論』ー黒木渚、その芸術的可能性ー

『黒木渚論・・・表紙絵に関する述懐』

【第二章】

『黒木渚さん「器器回回」について考察』

『高塔山ロックフェス/黒木渚』

『黒木渚論・・・アルバムの特質』

『黒木渚、「独立上昇曲 第一番」について』

【第三章】

『おわりに』

※文章の中で、黒木渚という本名で活動されているので、黒木渚と表記していますが、決して渚さんを呼び捨てにしている訳ではないことを、ご了承願います。

※本論の編集に於いて、文章に多少の加筆、修正を、加えましたことを、明記して置きます。

【第零章】

『はじめに』

今回も、【第一章】は、小説家になろうから、抜粋したが、未発表の文章が、かなりを占めている。どちらかというと、文学寄りの内容でもあるが、総じて、タイトルにある様に、芸術的可能性について述べた。【第二章】は、今回もnote、から。こちらも未発表のものが多い。全体的に音楽家黒木渚の歴史的エッセイの様になったが、熟筆出来た様に思う。芸術家の黒木渚さんについて、芸術的可能性などと言うのは烏滸がましいが、精一杯書けたと思って居る。【第三章】は、『おわりに』とした。本論の総括として、述べさせて頂いた。

【第一章】

『黒木渚『マトリョーシカ』論・・・宮沢賢治の『注文の多い料理店』との比較』

黒木渚※の『マトリョーシカ』という曲の歌詞に、この様な個所がある。

「開けて開けて開けて開け続けて 最後のひとつにたどり着いた 開けて開けて開けて開けて開け続けて 最後のひとつの中身は何? 入っていたのはマトリョーシカ」

「マトリョーシカ」から

これは、マトリョーシカに、人間の層を見たものだと、解釈しているが、例えば、宮沢賢治の『注文の多い料理店』などと比較すると、面白い像が浮かび上がってくる。

一般に人間には、個体差があるが、例えば、様々なる意匠を層として自己に抱いて、生きている人間が居るとする。様々な技法、様々な考え、様々な意見や口調、しかし、これらが全て借り物だった場合、最後にその人間に残るのは、何もない空虚な自分である。自分の発明なしに、借り物だけで生きていて、『注文の多い料理店』の様に、多くの要求に対して、自己をすり減らして行くと、最後には死滅状態の自己が存在するのみである。

『マトリョーシカ』の歌詞も、そう言った思考に準えて読むと、様々なる意匠を開け続けた結果、最後に残るものは、一体何だ、という、意匠の解体が書かれている様に読める。しかし、『マトリョーシカ』の場合は、最後に空虚になった人間が存在するのではなく、やはり、「入っていたのはマトリョーシカ」という結果になっている。これは非常に高度で、また、マトリョーシカという物体の面白さを、意匠の解体を通しても、人間と物質の差異を描いている点で、極、新しい発想なのである。

『マトリョーシカ』を初めて聴いた時に思ったのが、宮沢賢治の『注文の多い料理店』だったので、ずっと思考に残存していた内容を、今回取り上げている訳であるが、物事の解釈の逆転現象の様なものが、二つの作品の比較によって、浮上している。人間は、借り物だけでなく、しっかりとしたアイデンティティを持つべきだとも思うが、中々難しい問題でもある。

どう生きるかは、別にして、自分の在り方としては、『マトリョーシカ』の様に、意匠を解体しても、最後には確固たる自己の存在を持っていたいものだと、思いたいのである。こういった比較の前に、我々は、様々なことを考えるし、また、どうやって人生を生きるかが、問われていると、改めて思わされるのである。



『黒木渚と埴谷雄高の類似性』

1997年に、87歳で没した、埴谷雄高については、随分と長い間、自分の文章を書く時の救いになってきた。自分は、芥川龍之介に学生の頃、心酔していたが、その後、芥川龍之介が、自殺していることに、長年かかったが、疑問を持った、という訳なのである。
その疑問の一つに、芥川龍之介の、無駄のない文章、という観点に着目した自分は、段々と、芥川龍之介から離れていくこととなる。丁度その時に、日本語の文体の支えになったのが、埴谷雄高だった。埴谷雄高の文章は、長々とした、無駄の多い文章でもあり、しかし、筋道の通った、文章である。

自分は、この、埴谷雄高の、云わば、芥川龍之介とは真逆の、無駄のある文章に、長生きの秘訣を見たのである。人間誰しもが、無駄のない美しい文章を求められがちだが、そうある必要性というものはない。小説だって、もっと自由で、脈絡がなくても、需要があれば、それは小説であり、小説である。
しかし、埴谷雄高の小説には、しっかりと、センスのある文章が書かれている。さむいところも、カッコ悪いところも、馬鹿らしいところもない。そして、埴谷雄高を師とすれば、小説を書いていても、長生き出来るのではないか、と思い、そして、芥川龍之介の文体から、離れたのである。80歳くらいまでは、生きたいのだ。

無論、芥川龍之介が嫌いになった訳ではない、師とはしなくても、芥川龍之介がカッコいいことには、変わりない。ところで、音楽家、小説家として、近年自分が心酔しているのが、黒木渚※である。どこが、と問われれば、まず、センスが有りすぎる、というところだろうか。
埴谷雄高同様、さむい言葉が一つもないのである。所謂、美神を背負って、生きている、という観点から見ると、近現代の芸術家の中でも、群を抜いていると思っている。そしてまた、黒木渚に希望を見るのが、死に損ないである、というところだろうか。死よりも、生を選んだ、という安心が、支持の理由だ。

では、黒木渚と埴谷雄高の類似性という問題に入るが、まず、楽観的な生き方、という事に尽きると思う。無論、センシティブな側面も持っているとは思うのだが、-芸術家には、そのセンシティブが有利に働くことが多い、いわゆる、内向性からの、芸術の発露-、しかし、一貫して、前向きである。
また、埴谷雄高は、多くの小説家に支持されたが、その一側面として、新しい小説家の発掘に尽力したというところだ。埴谷雄高は、追随してくる新しい小説家を、潰さなかった。あの、有名な安部公房を最初に認めたのも、埴谷雄高だったのである。これは、大変重要な、日本文学史の起点の一つだ。

同時に、黒木渚も、他者を潰す、ということを、徹底して行わない。他者を応援する姿は、『心がイエスと言ったなら』にも表現されている。ファンに応援される立場の芸術家が、ファンや他者を応援出来るというのは、懐の深さを思わせるし、なにより、美しい生き方をしているな、と思わされるのだ。
そしてまた、人間の崇高性や、宇宙論などを、芸術に取り入れている点も、黒木渚と埴谷雄高の類似点である。埴谷雄高にも、随分と宇宙論に関する、小説や評論があるのであって、これがまた、面白いし、文章の無限を感じさせてくれる。黒木渚にも、『Sick』という宇宙の曲があるのは、見過ごせない類似点なのだ。

黒木渚と埴谷雄高は、人から支持される要素を沢山持っているという点にも、類似性が認められる。そして、人間の無限を感じさせる芸術の矢を放っている。埴谷雄高の小説や評論を読む時の安心感は、前述した様に、芥川龍之介の自殺という、悲劇的文章から、自分を救抜してくれた。
それは同じ様に、現代で芸術の先頭を疾走している黒木渚にも言えることだ。黒木渚の音楽や小説にも、自分は救われることが、多々あった。この、粗製乱造の世に置いて、現代の芸術界を見る時、黒木渚の個性というものが、決して消えてしまわない様に、ということを、ひたすら、願っているのである。



『黒木渚論・・・器器回回のライブで、購入特典となった、ポスターについて』

長いタイトルになりましたが、どうしても、書いて置きたくて書きます。というのも、現在、毎日、自分のツイッター(X)で、断片画像を上げている、器器回回ライブで、購入特典となった、ポスターのことなんです。

これは、器器回回のライブ会場で、グッズを1万円以上買ったファンが貰える、サイン入りのポスターなんです。非常に貴重だと思って居て、大切にしています。部屋の入口のドアに飾っているのですが、とにかく、最高にカッコ良いです。そして、断片画像を載せるのが、日課になっています。

やはり、思うに、一つの芸術でも、より高度な芸術品だと思っていて、本当にあの時、手に入れて置いて、良かったと心底思っています。何とも芸術的な黒木渚さんの、視線が、ポスターの上部にあって、センス抜群です。特典グッズ、最高です。



『黒木渚論・・・音楽界の芥川賞的位置』

黒木渚さんは、初めは音楽家としての出発だった。その後、小説も書かれるようになって、今は、音楽家であり小説家である、という位置に居る。音楽家とは言っても、曲は勿論のこと、見事な歌詞も書いているので、小説を書くことになるのも、必然的運命だっただろう。

しかし思うに、音楽家としての黒木渚さんは、文学的に捉えるなら、明らかに芸術的純文学だと思う。その純文学的音楽の占める位置は、音楽界の芥川賞的位置にいるのではないかと、常々思って居る。音楽には、芥川賞の様な賞はないから、困ったものなのである。

これだけ努力しても、芥川賞には到底近付けない小説書きの自分にとっては、思うに、みんな、黒木渚さんのやっている芸術が、崇高なもので、音楽界の芥川賞的位置に居ると、黒木渚さんのファンは、分かっているから、安心と言えば安心だが、音楽界の芥川賞を創設してくれ、と思うばかりである。

『黒木渚論・・・黒棘におけるユーモア』

黒木渚さんが、毎週火曜日に、youtubeで夜の9時から遣っている番組、黒木渚の棘、通称黒棘、の話である。何といっても、非常におもしろい。黒木渚さんの話が、面白いのである。この、ユーモアは、一体どこからやってくるのか。

毎週欠かさず観て居るが、面白くなかった回というものがないのである。不思議なことだが、これは、黒木渚さんが、先天的に生まれ持った、声と愉快さが交じり合って、ユーモアに繋がっているのではないだろうか。また、後天的なものを探れば、ポストモダン的発想に着目すべきであろう。

つまり、ポストモダン的発語というものが、何か常識を超えた面白さとして、番組を席捲していると思われるのだ。観て居て笑えるという番組は、そうあるものではない。是非一度、観たことのない方には、この、黒木渚の棘、通称黒棘におけるユーモアを、味わって貰いたい。



『黒木渚論・・・その初期衝動を巡って』

黒木渚さんが、どういう人生を学生時代から社会人になるまで、送って来たかというのは、昔、ご本人が述べられているので、ここで、もう一度、そのことを表記するつもりはない。述べたいのは、芸術的側面の、黒木渚さんの、初期衝動についてである。

その衝動とは、アプリオリなものでもあり、アポステリオリなものでもあっただろう。どういう芸術に触れてこられたかということも、様々に述べられている。ただ、自分が確信的に思うのは、その初期衝動に、ロック、というものが有っただろうということだ。

何かへ挑戦を挑む時、闘いの精神とは、公の場で活動される人々には求められようが、黒木渚さんの場合、そこにロックの精神が有ったと思う。これは、強さ、とも言えるだろう。そして、そのロックのエネルギーは、受け取る立場の我々に、寄与されるのである。

『黒木渚論・・・武道館と、日向ワンマンライブ器器回回』

現在自分は、日向での黒木渚さんの、ワンマンライブ器器回回の、ライブDVDを待っているところである。自分は金銭的問題で行けなかったのだが、かなりのキャパの会場だったようで、大成功だったと、耳にしている。

黒木渚さんは、これまで、武道館へファンを連れていく、ということへの、使命感とともに、それが、芸術活動に際して、或る種の重みになっていたのではないか、と思うようになった。自分としては、日向でのライブで、もう武道館的なものを果たせたとして、良いのではないかと思うのだ。

勿論、武道館で黒木渚さんのライブが観たいとは思う。しかしそれが、活動への障壁になるのなら、放棄しても良いはずだ。現在、黒木渚さんは、夜のまどろみ、などを始めとして、文筆活動にも力を入れている。小説家として、芥川賞に焦点を当てるのも、悪くないはずだ。



『黒木渚論・・・耽美についての私見』

今年(2024年)の、黒木渚さんのテーマは、耽美、だそうです。耽美と言われて、自分の範疇で出て来るのは、谷崎潤一郎です。実は、日文の院を中退してますが、何と、谷崎潤一郎にはほとんど触れていないという自己位置です。

勿論、読んだことはあります。それは、芥川龍之介と谷崎潤一郎の文學論争からくる、必然的な必読でした。話の筋の問題が、論争の核となっていますが、話は平行線でした。多分、両者の観点が、原初的に異なっていて、かみ合わなかったんだと思います。

それで、耽美について、遅れている自分は、取り敢えず、青空文庫で、谷崎潤一郎の小説を、しっかりと読んでみようと、思って居る次第です。しかし、耽美、芥川には欠如してましたね。萩原朔太郎あたりの詩も、範疇かもしれませんが。

それで、今年の自分のテーマと並行して、耽美を探って行こうと思います。すると、三島由紀夫や、ボードレールも入っていることが判明し、三島由紀夫は、『憂国』、『金閣寺』、辺りは読んでいることが記憶にありました。

ボードレールは、詩集を持っているので、読み返してみようと思います。ランボーやゲーテが主軸だったので、やはり研究までには到達していえなかったことが、何より不思議ですが、まあ、芥川の周囲を読みあさっていたということです。

画して、『黒木渚論・・・耽美についての私見』、と題しましたが、今年は、自分も耽美に触れる機会ヲ増やそうと思って居ます。ライブやグッズにも、新たな発見が、耽美の追求から、出来るのかもしれないですし。黒木渚さんの、テーマが、壮大なものになることを、願っています。



『黒木渚論』ー黒木渚、その芸術的可能性ー

可能性というのは、どこまで伸びるかということだ。例えば、黒木渚さんの「Sick」、などを聴いていると、宇宙論的なこの曲は、無限を想像させてくれる。我々の無限の希望に寄り添ってくれるかの如くでもあるのだ。

こういう音楽の手法は、黒木渚さんの独特のもので、本人曰く、捨てるのが得意だ、というのは、現状を振り払って、前へ進もうとする姿勢がある、ということなのである。こうして、ファンである我々は、救抜されるのである。

だから、我々は、黒木渚の、芸術的可能性を信じることが出来る。もう終わったな、と思わずに居られる。未来が楽しみになる。今年のテーマは、耽美、ということだが、ファンはその可能性を信じて止まないのである。



『黒木渚論・・・表紙絵に関する述懐』

自分は、発表している黒木渚論の表紙絵に、自分が過去に書いた、黒木渚さんの、絵を使用している。黒木渚論の初めの、『黒木渚論』―黒木渚、そのイニシアチブに沿って―、の絵は、黒木渚さんの「革命」のMVの一場面から、それを写実したものに、文字を入れた。

今回の、黒木渚論の2となる、『黒木渚論』―黒木渚、その芸術的可能性―、の絵は、ワイワイグルメ博の時の、ギターを弾いている、黒木渚さんの映像を、写実したものである。こちらの論は、『黒木渚論』―黒木渚、その芸術的可能性―、であり、2の表記が題名にはないが、実質的には黒木渚論の第二弾になるので、黒木渚論2,と文字打って置いた。

丁度、「落雷」がリリースされた頃、頻繁に、MVの映像を写実していて、その一環として書いたものの内の、2点が、表紙絵となった形だ。あの時、書いて置いて良かったと、今思って居る。また、機会があれば、書いてみたいなと、思って居るところだ。


【第二章】

『黒木渚さん「器器回回」について考察』

黒木渚さんの、「器器回回」について、考察してみる。考察とは言うものの、まだ、MV公開。音源配信、という、云わば、序章が始まったばかりで、考察して良いのかもわからないが。

現在、チケットの一般発売されている、9月の器器回回ライブの、タイトル音源であるが、やはり、期待値を超えて来た、最高値を更新して来た、そんな感じがする。

今回のテーマとなっているのが、「器器回回」という言葉である。

分解すると、キキカイカイ、となる。さらに分断すると、キカイと、カイキ、になる。我々はこの、カタカナ文字から、様々に想像する余地、を与えられる。

しかし、MVには、歌詞が記されている。怪奇、機械、この様に、既に我々に提示されている。

何れにしても、この言葉たちは、メロディの高揚とともに、繰り返し、繰り返され、キカイ、カイキ、怪奇、機械、といった風に、我々を器器回回の世界へと引きずり込んで行くのだ。

もうこういう一種の高みにある芸術には、現在流行りの音楽は付いてこれないだろう。そしていつか、この器器回回の様な芸術音楽が、流行りになった時、日本の芸術における音楽の位置は明らかに、上がるだろう。

与えられたモノだけを丸呑みにしてくから

器器回回/黒木渚

知識偏重型の想像力のない教育への警鐘にも聴こえてくる。日本はそろそろ、既成概念を壊して、再構築した方が良い。もうとっくに、見えている人には、日本の形而上がどんな悪を働いているかが、見えているのである。



『高塔山ロックフェス/黒木渚』

高塔山ロックフェス2023@高塔山/黒木渚

10/21、高塔山ロックフェス2023に、黒木渚さんが、出演する。現地まで行けないので、配信チケットを購入。ビルボードであった、ジャズ編成での参加の様だ。黒木渚さんとジャズとの出会いは、最高の出会いだったと思う。当日が、楽しみだ。

高塔山ロックフェス/黒木渚

10/21に、高塔山ロックフェスが、開催されます。自分は、配信組ですが、とても楽しみです。ジャズとの相性が、現在の、黒木渚さんには良い状況の様ですね。声も出る様になったと仰ってましたし、無敵の状態なんだろうと思います。個人的には、「ダ・カーポ」希望。

高塔山ロックフェス/黒木渚

初めから最後まで、とても良かったです。曲目は述べないでおきますが、何というか、今回も渚さんと、ジャズトリオとの相性は、抜群でした。夕方に差し掛かった頃からの出演だったので、配信組の自分にも、雰囲気の良さが伝わって来ました。来年ビルボード大阪に、期待!

高塔山ロックフェス/黒木渚

今思い出して、高塔山ロックフェスのあの空間、とても良かったな、と感動してます。今年、もしもまた、大阪のビルボードで渚さんと、ジャズのコラボがあったら、参加してみたい。多分、何度聴いても、「ダ・カーポ」には痺れるだろうと思ってます。



『黒木渚論・・・アルバムの特質』

黒木 渚の既発アルバムの特質を考察してみる。

『黒キ渚』『標本箱』『自由律』『檸檬の棘』『死に損ないのパレード』『予測不能の1秒先も濁流みたいに愛してる』『器器回回』

『黒キ渚』

アルバムタイトルは、黒木の木が、ノットイコール(キ)になっている。何とも興味深い表現である。内容としては、血の匂いというか、強烈な言葉と音楽の濃度で、アルバム全体が、一つのマグマの様に、煮えたぎっているのが分かる、といぅ感じである。このアルバムだけで、武道館に一番近い、と言われたのは、分かる気がするが、黒木渚さんの、余り意図しない箇所もあって、後に、バンド解散を選んだのだろう。しかし、黒木渚ファンならば、忘れてはならない、ファーストアルバムである。

『標本箱』

ソロになって初期の頃の黒木渚さんのリード曲、「革命」の入ったアルバム。のちの独立までのライブでは、良く歌われた曲だと言えるだろう。自己が発表した、『黒木渚論』―黒木渚、そのイニシアチブに沿って―、の表紙絵にも使わせて頂いた、「革命」のMVもまた、黒木渚の革命者としての強さ、を表している。当時を振り返って、あの金髪は意図するものではなかった、と述懐されているが、他者から注目を集める、という点では、理にかなったビジュアル表現だったかもしれない。黒木渚さんの曲には、捨て曲がないのだが、(これはすごいことである)このアルバムに関しても完成度は高く、自分は「マトリョーシカ」がとても気に入っているが、必聴のアルバムである。

『自由律』

自分の地元のTSUTAYAで、最大の展開がされていたアルバム、『自由律』は、危ういアルバムである、と言って置きたい。自由律とはまさしく自由律であって、全ての曲が、自由律な感じを受ける。独立後の黒木渚さんのグッズストア名である、「白夜」を最後に据えて、よりダイナミックに開花した黒木渚さんが居る。現在でも大切にされている、口上から入る「アーモンド」を始め、名曲が多い。シングルの「虎視眈々と淡々と」や、「君が私をダメにする」などを含む、全9曲は、実にリアルな黒木渚さんが、投影されていると言って良いだろう。syrup16gのベースである、キタダマキさんが、参加しているのも、見逃せないところだ。所謂、芸術としての商業が感じられ、最高のアルバムなんだから、売ろう、という戦略が、当時の黒木渚さん本人にとっては、どういう心境だったかは、分からない。

『檸檬の棘』

音楽家と小説家としての、黒木渚による、総合芸術となった、ライブ、檸檬の棘の、アルバムとしての『檸檬の棘』。私小説「檸檬の棘」との関係性から、重厚な表現となった、芸術の二刀流としての、一つの到達点が見える。自分がライブに参加する切っ掛けとなった、「ふざけんな世界、ふざけろよ」と始めとし、一曲も逃すことの出来ない完成度は、現在から振り返っても圧巻の一言である。「火の鳥」という、喉を壊した本人の、復讐の様な曲は、聴く者の、(とくに、世界のどん底に居る同志とでも言えば適切だろうか)、社会の底辺からの社会上層部への復讐に酷似した、自分にとってはエネルギーが貰える曲が入っている。黒木渚がソロになっての、第二章としてとらえれば、納得のいく曲や歌詞であって。まさに、「檸檬の棘」で歌われる、「あの素晴らしい棘を」という歌詞は、現在のyoutubeのラジオ、黒木渚の棘でも、最後に「尖って行こうぜ」と言われるように、黒木渚さんのロックの精神が表出した或る種の場、として受け継がれている。

『死に損ないのパレード』

自分にとっては、『死に損ないのパレード』は、少し特殊なアルバムだと言える。全曲を通して何回も聴いたが、ロックという言葉より、ユーモア、という言葉がしっくりとくるアルバムである。深刻な歌詞であるのに、不思議な感覚を覚える。この、歌詞が暗く、曲調が明るいというのは、黒木渚さんの一つの特徴かもしれないが、その特質が充分に発揮されたアルバムだと思う。ただし、一曲目の、「心がイエスと言ったなら」は、上記に含蓄されない、純粋な応援歌だ。ファンにとっての。しかし、この曲の真意を誤解しないで貰いたいが、何でも好きな様にやれ、と歌われているのではない。精神的に内省的な、うまく生きられない人々へ、その心細さに寄り添って応援する、という意味合いである。心に正直に生きられないもどかしさを、振り払ってくれる曲だと自分は認識している。まさに、黒木渚ファンに対して、歌われた曲だと言えよう。この様に、『死に損ないのパレード』のプロットは、初めの「心がイエスと言ったなら」が最初に独立して歌われ、後はユーモラスに表現されたと言えるのではないか。ただし、ジャズとのコラボでも歌われた「ダ・カーポ」だけは、非常に異才を放っていることを、明記しておく。

『予測不能の1秒先も濁流みたいに愛してる』

小説、「予測不能の1秒先も濁流みたいに愛してる」と合わせて発売された、黒木渚さんの、ベストアルバム。最高の選曲で、黒木渚さんの、音楽的歴史が表出している。この詳細に関しては、先に出版した、黒木渚論の中に含まれる、『黒木渚の、ベストアルバムについて』、『黒木渚論・・・10周年の間の歌詞の変遷』、を参照頂きたい。捨て曲が元々ない黒木渚さんの曲の中から、更に最高を選ぶのは、難しかっただろうと思う。

『器器回回』

独立後に発表された、黒木渚さん手製のアルバム。このアルバムが出てから、毎日の様に聴いている。5曲、全曲、よりファンの精神に強く訴えかける曲と歌詞は、ポップスではなく、もう芸術家黒木渚なのである。商売とはかけ離れた、創りたい物を創る、という精神が根底にあるから、この様な、驚きの芸術作品が作れるのだろう。ケースも歌詞カードも、非常に独特で、自分は2枚買ったのだが、一枚は使用することなく、本棚に飾ってある。芸術品としてのケース、これからも、この様なメタ芸術に走って貰いたいと、説に願うばかりである。中でも、「器器回回」の社会風刺は独特で、日本の未来を予定して作られたとしか思えない。何度聴いても、何度聴いても、本当に飽きない、最高のアルバムだと断言して置く。




『黒木渚、「独立上昇曲 第一番」について』

黒木渚さんが、独立して初めに作られた曲、「独立上昇曲 第一番」について触れて置きたい。

振り返らずに ここから始めよう

「独立上昇曲 第一番」/黒木渚

最後の歌詞は、この様になっている。黒木渚が、「黒キ渚」が第一章、「革命」が第二章だとしたら、この「独立上昇曲 第一番」は第三章になるだろう。この曲が布石となった、第三章までは、随分時間が掛かった。黒木渚さんが、自由に芸術を表現できることを、本人もその期間、耐えていたとも言えそうで、まさに、解放の原理でもって、この曲は歌われたのだろう。

外部からの拘束というものが、耐えがたいのと変わって、自分に拘束を与えることは、自由を標榜している。

耽美というキーワードが、2024年のテーマの様である。2023年は、「ロックと量子力学」だったが、「耽美」はより文學的芸術に沿った内容になると思われる。今年の黒木渚の動向が、気になっているところだ。まさに、独立後、ずっと続いている、「ここから始めよう」、なのである。



【第三章】

『おわりに』

『黒木渚論』―黒木渚、その芸術的可能性―、と題した本論であるが、云わば、『黒木渚論』―黒木渚、そのイニシアチブに沿って―、の続編、黒木渚論の第二弾なるものである。

書き出したからには、終わりまで書き貫きたい自分としては、正にその執筆濃度の高いものとして、より自己解釈の強い、論になったと思われる。耽美、についても触れているが、今年も楽しみな年になりそうだ。ライブ、グッズ、共に、である。それにしても、これだけ、黒木渚論を書いてみたいと思わせる、黒木渚さんは、やはり芸術的に於いてすごいと思うのだ。

芸術の幅も広いし、ユーモアも深刻さも、全てを芸術に変容させてしまう、黒木渚さんに対して、改めて敬意を表するところだ。

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