埴谷雄高、観念の渦の【超越論】
埴谷雄高、観念の渦の【超越論】
㈠
ここまで、何度も述べて来たが、もう一度、言って置こうと思う。埴谷雄高の作品は、小説に限らず、思想論、政治論に至るまで、至って観念的である。頭の中の、形而上学である。その、観念の渦の中で、言葉が飛び交い、上手く文章となって、我々に提示される。余りにも、現実から離れすぎて、一種の理解するのに苦しむ、と言った感じだが、だからこそ、知りたくなる、つまり、研究したくなる、ということなのだ。そしてまた、現実ではなく観念であるから、言葉の問題になって来る訳で、これも何度も述べているが、非常に自由なのである。まさに、埴谷雄高、観念の渦、と言った感じで、当初自分は知らない作家だったが、大学院の頃に出会って、そのまま、今日まで至っている感じだ。
㈡
この観念の渦、と脳裏に置いておけば、大概の埴谷雄高の作品は、一種の気楽な感じで、読めるのである。これは、観念の渦なんだ、と思えば、一種の意味不明の文章も、その裏で、埴谷雄高が自由に、云ってしまえば適当に書いている可能性だってある。読者を騙しているかもしれない。それでも、読んで居ておもしろいのだから、其の侭で良い訳であって、観念の渦で仕立て上げられた文章が、突拍子もなしに、こちらに読んで居たら飛び込んでくるのだから、まあ、面白い、としか言いようがない。しかし、もう一点言って置くならば、何度読んでも飽きないのであるから、これまた不思議な感じがする。読者を飽きさせないというのは、並大抵のことではない。事実、埴谷雄高は、研究者たちも、非常に難しい評論を強いられることになるのだが、なかなかに、その研究すら、楽しいのである。まるで、謎解きの様なものだ。
㈢
結句、こういった、観念の渦と言う事態だから、まさに、常に読者を超越しているのだと言えるだろう。しかしこれは、読者の上に立とうとする、埴谷雄高の奢りの様なものは、微塵もないのであって、要は、対等に、良く分からない観念の渦を提示しているのである。ここの、作者と読者の関係性におぃて、形而上学過ぎて、超越してしまっているのである。これでは、埴谷雄高とはどういう人なんだろう、というこになるが、以前の拙稿にもある通り、埴谷雄高は、分かって貰えなければ、去って貰って良い、と言うスタンスだから、尚更、超越してしまうのも無理はない、と言った感じか。埴谷雄高、観念の渦の【超越論】、として述べて来たが、言いたかったことは、タイトルにある通りである。埴谷雄高の観念の渦で生成された作品が、読者を超越する、ということなのである。これにて、埴谷雄高、観念の渦の【超越論】、を終えようと思う。
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