萩原朔太郎論ー実際の朔太郎像ー
萩原朔太郎論ー実際の朔太郎像ー
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先日、國文學の萩原朔太郎特集、「萩原朔太郎はどこへ行ったか」を、ネットで購入し、真剣に読んで居る。2000年1月号の國文學であるが、萩原朔太郎の神格化された像が、実際の萩原朔太郎の像を述べられることによって、確かに、その像の揺らぎが見て取れる内容になっている。例えば、萩原朔太郎の子供である萩原葉子へのインタビューからは、実に現実なる萩原朔太郎の像が述べられており、驚きの内容にもなっていて、実際の、生活者としての萩原朔太郎像が浮かび上がっている。
㈡
インタビューでは、父親の詩をほとんど読んでないだとか、家では、犬はよく飼ったけれど猫は飼って居なかった、だとか、二つくらいあった父親の小説を読んだけれど、全く面白くない、だとか。身内ならではの、まさに現実に生きる萩原朔太郎像が、述べられている。我々が、神格化していた萩原朔太郎も、やはり人の子であって、現実的な萩原朔太郎は、余り知りたくないな、とも、國文學を読んで居て、思ったものだ。そういう意味合いを含めて、「萩原朔太郎はどこへ行ったか」との副題を付けた、今回の國文學だったのだろう。
㈢
しかし、そんな背景を知って、幻滅する程に、萩原朔太郎の詩的営為は堕ちてはいない。どう考えても、ーつまり、実際の朔太郎像を知ったその後においてもー、やはり萩原朔太郎の詩に立ち返れば、そこには素晴らしい詩の数々がある訳で、詩集を読み返して、やはり大切にしておこうと思うのである。犬は飼っていたけれど、猫は飼っていなかった、にしても、そんな生活像は最早どうでも良くて、その作品に耽溺することが出来ることは、この回の國文學を読んで、更に萩原朔太郎の詩が、生活とは切り離された、芸術としてすごい、となり、更なる神格化を呼びそうだ、と思った、という訳なのである。萩原朔太郎論ー実際の朔太郎像ー、として述べて来たが、以上となる。