萩原朔太郎論ー『月に吠える』からー

萩原朔太郎論ー『月に吠える』からー

萩原朔太郎が世に出た詩集『月に吠える』には、実に様々な詩が詠われている。特に、『竹』や『猫』などは、特徴的で、様々に論者によって論じられて来た。そこには、日本文学と日本語学の両方を必要とする論じ方が必要になるという現象が起こっており、必然だったように思われる。もうほとんど述べ尽くされたであろう、『竹』や『猫』を、もう一度論じるつもりはない。ただ、日本独特の伝統というものを、口語自由詩の確立者である萩原朔太郎は、如実に継承したと言えるはずである。

新しい形式の詩であっても、内容に古典的な物を継承することは、先人に対する、一つの礼儀、と言われるかもしれない。というよりも、全く新しいもの、というものは存在し得ない様に思われる。小説家だって、初めは、誰かの小説を読んで、文章を書くコツの様なものを自然と学んでいるはずである。であるからして、『竹』や『猫』も、随分と変わった詩ではあるが、確実に日本文学史にその営為を刻む方法論は、欠如してはいなかった、というべきであろう。萩原朔太郎とて、日本を信じているはずである。

萩原朔太郎論ー『月に吠える』からー、ということで述べて来たが、萩原朔太郎の詩観というものは、内容的には、やはり日本の古典の継承だと言って良い。竹も猫も、竹取物語や、化け猫の話など、そういったものに依拠していることは、その発想として、理解出来る。萩原朔太郎がすごいのは、それらを口語自由詩として執筆した、ということである。形式の創造、これ程難しいことをやった萩原朔太郎は、やはりすごいとしか、言いようがない。萩原朔太郎論ー『月に吠える』からー、の結びとしては、そのすごさ、を強調して置きたいと思う。以上で論を終える。

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