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書くことは孤独である
秋、バスの車窓から、眺める景色が日本とは違うものであることに慣れてしまった時、ある意味、そこには特有の「孤独」を感じることがある。そこだけ写真のように切り取られたような、一瞬の刹那の後に、現実に戻る白昼夢のような感じなのである。
私は時々、この孤独を楽しんでいる節がある。そして、もう一度その似た孤独を味わいたいと思った時、私の場合、「書くこと」を選ぶ。自分という器の中から、決して外にはみ出さない範囲で、自分とじっくりと向き合う時間である。
またある時には、窓の外を見遣り、しんしんと積もっていく雪を見つめていた冬のように、自分の心の中に積み上がっていく感情の一枚一枚を丁寧にはがし、また蓋をしていくこともある。
そう、孤独とはそういった、過ぎ去っていく一瞬一瞬の積み重ねの中でこそ、深く感じられるものだと思う。
言葉を一つ一つ丁寧に、並べそろえ、時に入れ替え、消して生み出していくその過程は、誰にも邪魔されない、自分だけの歩みである。自分にしか見えないゴールを手探りで手繰り寄せていく、何とも言えない世界観を味わうことができる。
それは、春に近づく雪解け道を一歩一歩、自分の足で軌跡を作っていく「新たな」出合いへの渇望でもある。
しかし、時として書くことは「毒」にもなる。孤独という「毒」である。それは、一瞬にして私を捕らえるものではなく、ささくれだった傷がふいに沁みて痛みを感じるような小さく、一見すると害にならないような「毒」なのである。
いつの日か、この毒が自分を捕らえて離さなくなった時、書くことで、表現してきたものがすべて、泡となって消えていってしまうのかもしれない。
そういう「怖さ」を忘れてはいけないのだと思う。忘れてしまうこと、つまり、腐っていくすべてを見逃してきたツケを払うということである。それは、痛みを伴うだろう。
自分を形づくってきたものを、夏の強い日差しがすべて溶かし、波とともにさらっていくような潔さすら感じるものでもある。
書くこと、それは孤独である。
しかしまだ私はその深淵に立ててはいない。そこに至った時、書けるようになったといえると思うのである。
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