読書から考える「愛」について
読書から得た「愛」について書く前にそもそもの「愛」について分析して、考えてみたいと思います。
家族愛について
肉親のことを書こうとすると、思うように筆が進まないのですが、今日は私の父のことから書き始めようと思います。
私の父は、真っ直ぐに愛を伝えられないタイプの人でした。しばらく父と暮らしていませんので、現在進行形で、そうであると明言はできないので「でした。」と表現させて下さい。
例えば、幼い時分に風邪をひけば、世間一般的には看病をするというのがスタンダードだとすると、父は「うつるから。」といって自室に引きこもるような人でした。
私は、ここで「ああ、なんてかわいそうなんだ。」と同情を煽りたくて書いているのではなく、そういう真正面から目の前の「自分の子どもという」『愛』と向き合うことができない、ままならない想いを抱える大人がいるということを、実体験から正直に伝えたいのです。
愛は親からのみ学ぶものなのか、否か
では、私は愛を知らないのかといえば、そうではないのではないかと思うのです。自分自身が慈愛に満ちた人格者だと言うつもりはありませんが、他者や家族に対して、父と同じような対応をしようとは思わないからです。
お粗末にもそのような扱いを受け育ったとはいえ、わたしはここまで成長し成人し、自分の足で立ち生きていることを思えば、それは明白なのではないでしょうか。
愛はinteraction
相互に影響し合うことを考えれば、私と父の関係は全くと言っていいほど、interactionではないと思います。しかし、一方通行(One way)の私の愛を伝え続けて30数年。少しずつ父は変わり始めているように思います。
いよいよ、日本を出て海外に向かうその日、空港での最後の時間。やはりそこでも、搭乗口が見える保安検査場手前まで来ることができなかった父。それでも、検査場よりもずっと遠くで切なそうに私を見つめていたからです。
これもまた、父の『学び』なのでしょうと感じました。そこで父は「自分の子ども」という『愛』の形を縁どる、彼だけの「何か」を吸収しようとしていたと思います。
人類愛から学んだ「愛」
父からのわかりやすい『愛』というモデルロールがなかった私は、周りの人間から『愛』が何かというのを吸収して育ちました。
19歳、大学生だった私は1か月かけて取り組んだプロジェクトがありました。しかしながら本番当日。いろいろなことがあり失敗しそうになったことがありました。
19歳とはいえ、その時の私の心は半分、いやほとんど子どもの心のようなものです。
半ば泣きそうになっている自分。どうして自分はこうなんだ・・・と自暴自棄でした。しかし、なぜか
「It's all right」「No worries. 」「Why are you crying. 」「It’s not problem.」と、周りの人は私にそう言葉をかけてくれたのです。私の人生の中で忘れられない1ページになりました。
受けるよりも与える方が幸いである
私は、今「家族愛」や「異性愛」「同性愛」を越えて「人類愛」について考えていきたいと思うことが多くあります。私は、信仰している宗教はないのですが、教養として「聖書」に触れたことが幾度かあったのでそこから引用したいと思います。
受けるよりも与える方が幸いなのは、父との関係性からも自分事としてとらえて理解することができます。
読書から知る『愛』について
さて、いろいろな作家さんがいますが、吉本ばなな(よしもとばなな)さんの作品を紹介して、読書からも得た『愛』についての知見や想いをまとめて書き終わりたいと思います。
言葉を通して、伝わる『愛』についての課題についてこれからも奥深さを感じながら生きていきたいと思います。