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#8 不知火とほほ笑み

 始業初めに、一緒に働く現地スタッフから不知火のようなフルーツをもらった。翻訳機で、不知火、デコポンと出てきたから、デコポンよりも広く名前を定義できる不知火と名付けることにした。

 両の手でそっと包むと、さわやかな夏空を思い出すような香りが、その果物からあふれた。自分だけがもらったわけではないと思うが、こっそりとカバンの中に忍ばせた。隠したいというより、何だか誇らしかったからだ。

 小さな贈り物は、私の生気を取り戻すトリガーになったように思う。生きることは、単純でも楽でもないけれど、悪いものではないと改めて感じたのだ。

 黄色とオレンジ色の間のそれが、みずみずしさそのものだったからではないか。赤ん坊の時の親指と人差し指の間のふくらみのような、春の風のやさしさのような、そんな形容をしたところで味は変わらないだろうけれど、人の気のこもった不知火は、ささくれだった私の心を、そっと手当をしてくれたのだと思う。

 ずっと、そう、わかりやすく数字で言えば1ヶ月くらい、生気を失った花瓶の中の花のように生きていた。そこに色があって、存在はしているけれど、香りはしない、というように。

 そして野に咲く花のように、誰の干渉も受けないけれども、何故だか不自由な中に閉じ込められていた。窓辺から見た景色と、外から家の中を見た景色とが違うように、確実にそこにあるのに、視点が変われば存在への意識も変わるといったように。

 体調が悪くなったことが最初のきっかけだったように思う。その後も、何とも言えない空虚感を味わった。プライベートを含めた実生活で何かあったわけではないのにだ。

 これまでは、ぐっと落ち込むと、落ちている感覚が自分でもわかって、泣きわめいたり、怒ったりと、心の中を強い感情が私を支配してきた。滑り台からすべり落ちるのが怖い子どものようでもあった。暗がりで目だけ光らせている猫のように、気持ちがさまよっているようでもあった。

 でも、今回はそれのどれでもなかったのだ。

 不思議だった。

 本当に。

 そして、何もしたくないという形に支配されているようでもなかった。常に手も頭も体も動くのだが、まるで魂だけそこにないように思った。

 朝は、決まった時刻に起き、シャワーを浴びて仕事の準備をして、人より早めに出勤する。そして、決められた時間を働いて帰る。たまに残業もして、家でも気が向いたら仕事をして、繰り返していく。

 誰かに自分を支配されるでもなく、誰かを支配するでもなく自由ではあった。自由であるのに、息苦しかった。

 新しいことにもチャレンジした。新しい本との出合いもあった。見知らぬ人とも犬の話をした。犬が2匹、その人と私の間に確実にいた。それでもなお、私は私でないような気がしてならなかった。

 今朝、ぱっと手のひらから手のひらに移動した不知火を眼前に感じた時、そこに確実にあるという存在感が私に、私を思い出させてくれたのかもしれない。

 私という魂の入れ物だけ残しても、何も変わらない。私という命は魂そのものなのだと思う。私は取り戻したい。不知火は、本当の意味での微笑みを私に、まずは思い出させてくれた。




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家出猫
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