『何が彼女をそうさせたか』(原作:藤森成吉 主演:高津慶子 1930年2月6日公開)個人の感想です
より古い文学作品の映画を探していたところこの映画『何が彼女にそうさせたのか』に当たったのだけれども、1930年の映画ということで、普通、私は映画を観る際には事前に内容が分かるものは調べたりしないけど、さすがにこれはどんなものだろうと調べてから観ようという気になった。しかし、映画のプロフィールは見ても、あらすじは見るまいと、で、この映画は、無声映画と書いてあるではないか。無声映画そのものが未体験であったので、その興味もあり、観てみることにした。
観終わったあとの感想は、まず、この映画を観た当時の人は、この映画についてどのように思っただろうということ。この映画は当時でもかなり貧しい女性が主人公で、とてもこの主人公は映画を観ることが出来ない生活を送っている、映画を観ている人は、それなりにお金があるわけだから、観てる人たちにとって現実味があるものではないかもしれない、かといって、主人公に共感し、実際にそのような人が身近にいたとしても、この映画を観て主人公のような人を助けるというところまで考える人が沢山いたわけでもあるまい。その主人公を観て、自分達はそういう人生でなくて良かったなと思った人たちはいたであろうが、そういう人たちが大多数ならば、悲しいものだなと思った。
さて、物語であるが、主人公は14才の娘・中村すみ子(高津慶子)、非常に貧しい家庭で、父親が病気のため自殺をし、学校に行かせてもらうように父親が書いた手紙を持って親戚の叔父の家を訪ねていくところから始まる。ひたすら歩いていたすみ子を馬車引きのオヤジが家に連れて行き、晩御飯を食べさせ、家に泊まらせる。しょっぱなから怪しいオヤジが出てきたなと思っていたら案の定、寝ている間にすみ子の荷物の中から財布を取り出し、にやりと笑って次のシーンへの移る。翌日、この馬車引きは、すみ子を叔父の町の近くまで送り去っていく。(実は、あとから分かるのだが、お財布はお金を抜き取ったのではなく、銀貨を入れてあげていた。そういう意味では、この映画で唯一登場するいい人であった)
すみ子は叔父を訪ねるのだが、ここでまた、いかにも意地が悪そうな叔父と嫁、子供が7人もいて、学校に行かせてもらうどころか、ご飯すら食べさせてもらえないのではないか、という感じの貧しい家庭で父親からの手紙を叔父に渡す、その手紙を入れてあった封筒の中にはお金が入っており、すみ子が気が付かないうちに叔父叔母がお金を取り上げ、いかにも自分達の子供たちにそのお金でご飯を食べさせたのではないかという場面が出てくる。すみ子は、その子供たちが食べ残したお魚の骨に残っている身をむしるように食べる、そのような仕打ちを受けていた。
すみ子は、その後、曲芸師に売られ、ひどい目に合う(壁の前に立たされて、曲芸師がすみ子の周りにナイフを投げる、その的にされるのだ)、そこで出会った新太郎という男と逃亡するものの、新太郎は行く先の道の確認に行った際に交通事故に遭い、はねた車に運ばれて別れ別れになってしまう。その後、すみ子は、養育院に入ったり、議員の女中、琵詐欺師の子分、琵琶法師の女中になるが、どこに行ってもひどい目に遭い、追い出される、逃げるを繰り返す。しかし、琵琶法師の女中の時に偶然にも劇団に入ってた新太郎と再会し、結婚する、が、新太郎が失業し、2人はなすすべなく海に入り自殺する。
ところが、すみ子は、助け出され、教会の施設、天使園にたどり着く。残念ならが、そこも腐敗しており、すみ子は園主からあることについて懺悔を迫られ、ついに、すみ子は教会を放火し、最後は警察に捕まって終わる。(ちなみに園主は信者を捨てて逃げている)(最後の放火、教会の大火のシーン、警察に捕まるシーンの映像はなく、実際には会ったのかもしれないが消失したのであろう。)
1930年は、世界恐慌が日本に波及して不況となっている時代だとは言え、この映画の映像のような生活というのは余りにひどい。原作は、1927年(昭和2年)のようなので、明治時代か、大正時代のお話ではないかと思ってしまうほどである。さて、この映画を見て、短絡的に今の時代ではありえないな、と思うこと以外に、私は、何を感じればいいのだろうかと思った。もちろん、作者は、今の時代を知らないし、今の時代の人たちに何かメッセージを残したかったわけでもないかもしれない。
しかし、私はこの映画から何かを感じたいと思い、じっーと考えた。そして思った、この映画のタイトルは、『何が彼女をそうさせたか』というタイトルで、観る人に『何が彼女をそうさせたか』を投げかけている、そうだ、だから、何が彼女をそうさせたかを考えて欲しいというとだなと。この映画には、多くの悪い人が出てくる、当時はその悪人に近い人たちも観ただろうし、そうでない人たちも観たに違いない。観た人たち各自がその原因を考え、各自がその原因とならないようになって欲しい、作者はそう思ったのかもしれない。
人間は、ずるい動物である、私もずるい動物のひとりであるが、時代背景が違いすぎて、私の中にはこの映画に出てくる悪人の要素はないような気がする。それはそれでいいのかもしれないが、自分の環境が仮に変わって、劣悪になったとしても、ここに出てくる悪人にはならないようにしよう、そう思った。それでいいのだ(バカボンのぱぱ)。
蛇足ではあるが、主役の高津慶子は、綺麗でかわいい、今から94年前、ほぼ100年前であるが、美しいひとは、いつの時代も美しいもんだなと思った。
では、また。
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