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賤ヶ岳合戦の砦を巡ってきました。

三連休は湖北の堂木山砦・神明山砦などへのハイキングツアーに参加してきました。
これらの砦は賤ヶ岳合戦の際の羽柴秀吉方最前線防衛ラインの一翼で、北国街道の西側の押さえとして余呉湖の北方を遮るように北東へ延びる尾根上に築かれているものです。

賤ヶ岳合戦ゆかりの地マップ。

戦国最大級の築城合戦でもある賤ヶ岳合戦には興味があって、これまでも玄蕃尾城、行市山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦などに行ってます。(規模が大きいとされる羽柴秀長の田上山砦や堀秀政の東野山砦にもまだ行けてないんですけどね‥💦

玄蕃尾城天守台跡。

今回行った、西側のこれらの砦ももちろん、土塁も高く虎口が複雑だったりで面白かったです。やはり柴田側の北側を意識した作りになっていました。

堂木山砦の縄張り図。なかなか技巧的です。

北国街道に一番近い堂木山砦は、山路正国(柴田勝豊の長浜城が賤ヶ岳合戦事前に羽柴方に難なく落とされましたが、勝豊の家老)が羽柴方として守将を務めていたとのことでした。
つまり、にわかに羽柴方になったような武将さんだ💦

堂木山砦の喰い違い虎口。

山路‥?といえば三重のおばあちゃんちの近くに、神戸氏の重臣山路氏の一族のお城がいくつかあるのですが、やっぱり三重の神戸氏が織田に降った後、柴田勝家→柴田勝豊の家老になっていたようです。

堂木山砦。北側の土塁の外に横堀。


勝豊と共に羽柴方に降ったようですが、心は柴田方で、秀吉の動向などを柴田方に流していたそう。その情報により、佐久間盛政が賤ヶ岳西側の砦群を襲撃するなど、柴田方にとっては有利に働いていたけど、やはり寝返っているのがだんだんバレてしまったそう‥。

神明山砦側には一騎掛けの道。


長浜城にいた山路氏縁者は早々に船で長浜城から脱出していたけれど、連れ戻され堂木山砦で処刑されたそう‥。このお話はガイドさんが気を利かせて、お隣の神明山砦でしてくださいました💦

神明山砦は羽柴方直臣の木村小隼人が守将、黒田官兵衛も在陣した記録があるみたいです。
ここてハイキングツアーのお昼ご飯を食べ、解説を聞きました。朝雨が降ったからかカエルをたくさん見かけました☺️

西側は堀切でしっかり断ち切ってあります。


神明山砦堀切。

この砦群の尾根続きの高所に登ると茂山砦があります。
これまでの砦群にはちゃんとした縄張り図が掲示されているのですが、茂山砦は広い削平地が続くだけで、砦としての遺構はうっすらとしかありませんし、案内板などがありません。ツアーに参加してよかったみたい。

茂山砦の削平地。

前田利家・利長親子は合戦当初、北方の別所山砦に布陣していました。その後佐久間盛政の進軍に合わせて南下して、この砦に布陣したとされます。
茂山砦に立ってみて、羽柴軍の前線を押さえ、佐久間軍の背後を確保するために、ベストなポジションで前田軍は布陣してたんだけどなあ💦‥とよくわかりました。
そして余呉湖の方へ下山しました。
下山には佐久間軍が行市山砦を出て、堂木山・神明山砦の西を下り、賤ヶ岳砦の下を半時計周りに迂回して大岩山砦や岩崎山砦を襲撃する際に下った(権現坂)を通りました。ここは前田軍が戦線離脱する際にも通ったとされます。

権現坂。実は県道なんだそう💦


秀吉が大垣から美濃大返しで戦場に姿を現し、佐久間軍が退却に移ると、前田軍も戦場を離脱。前田軍の援護を受けられなかった佐久間軍は羽柴軍の激しい追撃を受け、総崩れとなってしまいました。

権現坂途中のホトトギスの花。

それにしても、前田軍はなんで戦線離脱したんでしょう‥。
羽柴方の前線を高所からも抑えれるこの茂山砦のポジションからは、遠方も俯瞰できて状況がよく見えたのかもしれないなあ、と思いました。もともと若干日和見気分であったならば、どうでしょうか。
でも前田軍も戦線離脱したとはいえ砦に残って討死した武将さんや、戦線離脱のしんがりを務めた武将さんがおられたそうです。

下山して余呉湖ビジターセンターに着いたら予定よりも2時間くらい早くて、ハイキングは解散になりました。
夕方までは活動するつもりだし、余力があったので、ガイドさんに前田軍のしんがりを務めて負傷し、麓の寺で自害したという横山長隆の墓所などへ案内してもらってきました。

横山長隆墓所。

苔むした墓所を見ていると、
(やはり前田利家も秀吉とあらかじめ通じていたのではなく、戦況を見て判断したのかなあ)と思えました。
横山長隆の次男の長知は前田利家と共に府中城へ帰還し、父の功績のおかげで前田家八家老の一人となったそうです。
とっても暑かったですが、臨場感あってすごく面白かったです。


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