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花倉の乱の決戦地、花倉城へ行ってきました。

昨日は、前から行きたかった静岡県の花倉城に行ってきました。
花倉城は(花倉の乱)=
(今川義元(栴岳承芳)が家督を継ぐにあたった異母兄弟・花倉殿と呼ばれていた今川良真(玄広恵探)との戦い)
の決戦地です。

花倉城案内板

1536年、兄で当主の今川氏輝が突然死去し、同日に今川氏輝のすぐ下の弟・彦五郎も死去しました。死因は不明ですが、同日に二人が死去していることから、毒殺や暗殺説も唱えられています。手を下したのもどちら側の説もあるみたいです😅

今川氏輝の母・寿桂尼や今川家の一部の重臣達は、今川氏親の正室・寿桂尼の子である栴岳承芳を還俗させ義元とし、当主にしようとしました。もちろん、彼の補佐役であった雪斎も尽力しています。

一方、外交や軍事を担っていた家臣の福島氏など他の有力家臣が反対します。
今川義元には死んだ2人の兄以外にも、仏門に入っていた異母兄が2人いましたが、その一人の玄広恵探(還俗して良真)の母が福島氏の出でした。
そのため福島氏や他の有力家臣らは、良真を今川家当主にしようと反乱を起こしました。

花倉城を中心に戦闘が展開されたのかと思いきや、今川館をはじめ、領国全域で戦闘が行われました。最後の決戦の地が花倉城です。

義元側は、後北条氏に協力を頼み、一気に花倉城に立て篭もる良真側を攻めると、良真は逃亡・自刃しました。結果、今川義元が今川家当主となります。
義元の両国統治は外交も経済政策も優れていたといいます。

花倉城はかつて山麓にあった元祖今川館の詰城で比高も300メートルほど、山奥です。スマホの電波もなかった。

南東に開けていて、駿府方面もよく見えます。


でも近くまでみかん畑や茶畑が広がっていて山奥感がありません😅鳥獣よけなのか、定期的に爆竹が鳴っていて、イチイチびっくりします。

大手からいきなり一騎駆けの土橋。
大軍をシャットアウト


雰囲気のある大手道なんだけど、とても急です。

小規模な詰城と思いきや、各尾根に段郭が展開していたり、尾根下にテラス状の削平地が広がっていて、十分兵も駐屯できたのでは?と思えます。
主要部の遺構は今川の後、武田勝頼に改修されているだけあって、ダイナミックな堀切も見られます。

主郭と二郭間の堀切


ニ郭。麓もよく見えます。


主郭。結構広く櫓台もある。


良真が逃げ落ちたルート。


義元側の一斉攻撃にあい、良真は花倉城の西へ逃げ延び、一時高山寺に匿ってもらいましたが、普門寺にて自刃しました。

下山してゆかりの地を訪ねます。
駿河今川氏三代泰範さんと、雪斎さんのお墓のある長慶寺。

雪斎のお墓もある長慶寺。
尾張、三河での合戦が鮮やか過ぎて雪斎さんは大好き。

良真さんが住持をされていた遍照寺。今川二代範氏、氏家さんのお墓もあります。
このお寺の前の平地が元祖今川館(駿府の前身)家臣の屋敷地も広がっていたそう。

良真が住持をしていた遍照寺。

そして良真さんが落ち延びて一時匿われていた高山寺‥‥
に行って見たけれど門しかなくて、建物がありません。
ちょっと途方に暮れていたら、近所のおじいさんに、
(一昨年全焼したの)って教えてもらいました。
ちょっといたたまれない🥹胸が苦しい。

良真が逃げ落ちて一時匿ってもらっていた高山寺。
今は門しか残っていません。

最後は自刃した元普門寺にある石碑とお墓へ。
入り口に桜の木があり、春には咲くのかな。
義元もだけど良真も若かったから、周りに担ぎ上げられた部分も大きいだろうし、気の毒だなあ。
義元さんも多少は苦い経験を経て当主となり、よい領国統治せなあかんという気持ちもあったんだろうと思いたいな。

花倉城から逃げ落ち、自刃した普門寺跡。

義元が桶狭間合戦へ出陣する前夜、夢に良真が現れて
(此度の戦はすべきではない)と言い、
(おぬしはわしの敵ではないか)と義元は言ったそう。
出陣後この地・藤枝あたりで良真さん(の幻)を見かけ、義元は刀を抜いたとも。
まあ、作り話でしょうけれど、亡くなった良真さんも今川家が滅びるのを見過ごすわけにはいかなかったのかなー🧐

お城は一つしか行けなかったけど、よい散策になりました。


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