「思う」より「感じる」がさき。
糸井重里という有名なコピーライターがいる。
わたしは全盛期の糸井さんよりも、今のおじちゃんになった糸井さんの方が断然いいと思っているひとりだ。
あらためて言うと、ちょっとした憧れに似たようなもので、発することばや文章にえらく頷いている。偽善的もなく、上からでもなく、意識たかい系でもなく、社長ぽくもない。
いーい感じに、わたしの中にすとんと落ちる。
もちろん、「ことば」の扱いはプロだ。ただそれだけではない、きっと人柄や歩いてきた景色も「いま」のその人を表すんだと、ひとりほくそ笑みながら読みいってしまう。
きっかけはやっぱり、いぬだった。
糸井さんちには以前、「ブイヨン」というジョックラッセルの女の子がいた。
ぐぅが、うちのこになった頃に知り、肺活量ぜんかいで吸い込まれた。
「ブイヨンの気持ち」というエッセイ写真集を買い、ほぼ日が運営するインターネットアプリ「ドコノコ」で、毎日のようにブイヨンの写真を投稿する「いといしげさと」に、まんまとドンピシャで落とされた。
ひとことで言うなら、やられた。わたしも、そんなふうに写真を撮り言葉を添えたいんだー。と。
写真家でもない「いといしげさと」が撮るブイヨンは、おもしろく愛があふれていた。
ただかわいいだけじゃない、ただいい写真だでもない。それは撮るひとと、撮られる被写体との関係性もあるんじゃないかと思うのです。
そう、にんげんといぬでもです。
じつは、どんな距離感で生活しているのか。ブイヨンは、ほんとのところ「いといしげさと」をどう思っているのか。
それは意外にも、家人が撮った写真でうかがえたりもした。うつ伏せに寝入ってしまった飼い主。そのお尻にあごを乗せ、うとうとするブイヨン。
すり鉢で山芋をごりごりしている飼い主。その真前にお座りして心配そうに眺めるブイヨン。
いぬをいれて、さんにん家族はこうです。溢れてるなーあい。
そんな大切な家族が2018年、お空組へ旅立ったとドコノコの写真で知った。
小さな段ボールに、たくさんの花に囲まれて眠っているブイヨン。その横で、またうつ伏せになり寝ている「いといしげさと」
お尻にあごを乗せ、安心しきった寝顔や脚の間に顔を埋める姿が、ぜんぶぜんぶフラッシュバックする一枚の写真だった。
もうあの、あたたかい生きものは、くっついてくれることはない。
おんなじだ。ほんとに、おなじくだ。
感じるからこそ、「おもう」のだ。
なにかを感じなければ「おもう」には至らない。そんなことも「糸井重里」はさらりと言葉にするのだ。
あたりまえの、おちゃのこさいさいのようなことも、「やさしく、つよく、おもしろく。」
それが社訓という会社は、世界で一つしかないだろう。
新しく出版される本「かならず先に好きになるどうぶつ」から。
今日も一日ありがとうございました☻
聞かれるたびに、「平常運転中」を強調しているが、平気のこころのどこかに、穴が空いているらしい。なにかの拍子に、犬のことを思い出して、かわいくてしょうがないという気持ちがあふれてくる。それにつられて泣きたくなったりもして、これは困ったなぁと思ううちに泣き出す。他人事のように、それを見ているじぶんもいるので、なにやってんだよと笑いたいことでもある。悲しいのでもない、さみしいに近いのだけれど、泣き出したいことの原因は「かわいい」なのだ。かわいくてかわいくて、こころが痛い。妙な気持ちだなぁ、こういうのははじめてだ。やっぱり恋みたいなものなのだろうか。つまり、これはのろけであるのか。
(糸井重里 『かならず先に好きになるどうぶつ。』より)