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第0講 キューバ危機概略

キューバ危機概略
 キューバ危機は人類が滅亡に近づいた最も危機的状況であったと言えよう。キューバ危機を契機として米ソ対立は極限に達し、核戦争に至ってもおかしくない状況であった。ソ連はアメリカの裏庭であるキューバへ「攻撃的」兵器を持ち込み、アメリカはいかなる手段を持ってもこれを除去する算段であった。キューバ危機はケネディの冷静さによって回避されたと述べられる事があるがこれは正確ではない。キューバ危機そのものの始まりが、アメリカの誤算から始まり当事者3カ国の誤算は危機中に何度もあった。核戦争は眼前に迫った極限状況は間一髪回避されたものの危機において核戦争に至る可能性は十二分にあった。もし、ケネディが武断派に耳を傾けキューバの直接的介入に望んだら、ソ連潜水艦から核魚雷が発射されていたら ①小さな出来事が一つでも違えば人類史は1962年で終焉していた可能性があった。キューバ危機はそれだけ極限の状況下にあったのである。本項目においてはこのキューバ危機を概略として記述していく。

 この章においては付録の年表を参照してもらい大まかな流れを把握してもらった上で、実際の流れや各行動の動機といった側面を補充していくことを目的とする。ここでは網羅的に米ソ双方の情報を掲載するが、無論当時の当事者は互いの事情を知り得ていなかった。

危機の背景
 キューバ危機が人類滅亡の瀬戸際に追い込まれた直接的原因は米ソという根本的政治システムが異なる超大国同士が互いを敵視し、かつ核兵器を持って互いを牽制していたことにある。冷戦期を通じてアメリカは常にソ連に対して経済的に優越していた。また、兵器の質に関しても多少の差異はあるもののアメリカが優位であった。核兵器自体もアメリカが先に開発を終了し、実戦配備を行った。しかし、両者が鉄のカーテンを挟んで対立する欧州域の陸上戦力はソ連が圧倒しており、仮にNATOとWTO(ワルシャワ条約機構)が衝突した場合後者に軍配が上がることが予測されていた。そのためNATOは戦力の劣勢を核兵器によってこのギャップを埋めようとした。1970年代~1980年代以降の戦略的思想は深化し、アクティブディフェンスからエアランドバトルに発展していくことになるが1960年代は未だに理論上においても対東側陣営に対する戦略は構想途上の時代であったと言える。これに対してソ連は核戦力の拡充によって答え、結果的にどちらかが核を放てば確実に核による報復を招くMAD(相互確証破壊)の状態に陥った。端的に言えばキューバ危機が人類の危機となった理由はここにある。ではなぜキューバがその舞台になったのか。
 アメリカは冷戦構造が明確化していく上で、西欧諸国に対する軍事的・経済的援助を行い。自国の位置する西半球におけるプレゼンスを強化した。ラテン・アメリカ諸国の支持や理解を得ようと1951年にはOAS(米州機構)を設立した。一方で米州機構憲章第15条②に不干渉原則が明記させられているにも関わらず、グアテマラにおける露骨な内政干渉を行った。③アメリカの立場からすると同地域における共産主義政権の存立は核心的利益を阻害するものとみなされていたのである。裏庭に共産主義勢力の伸張を許せば間違いなく、アメリカが対抗する覚悟がないとソ連に誤認される可能性があった。また、同盟国との信頼関係にも関わる問題でもあった。後にニカラグアやチリにおいても左派政権に対する干渉が行われていることからも明らかである。このような文脈の上にキューバは立っていた。他方ソ連にとってはスターリン批判から揺らぐ東側諸国に対する指導力を発揮する必要性があった。自力で革命を達成した「同志」カストロを支援することは重要なポイントであった。加えてソ連の抑止力強化としてキューバにおけるミサイル配備は重要なものであった。加えて当時ソ連が自身で誇張していたほど対アメリカに対するミサイル戦力は十分なものではなかったのである。弾頭数やそれを実際に投射する能力に関しても両者には差が存在した。米ソ両国におけるキューバ認識はこのようなものであった。

図 1 1962 年時点における米英ソの核兵器保有量

 キューバはアメリカにとって自国に組み込む構想が唱えられることもあるほど重要な意味合いを持っていた。大規模な港湾施設を持っているハバナ港がフロリダと向かい合い、産出する特産物から双方にとって利益のある交易が期待できたことなど様々な点からアメリカにとって重要な島であった。1823年にジョン・クィンシー・アダムス国務長官が「我が連合の政治的、商業的利益にとってけた外れに重要な対象」と述べることからも重要性④が伺える。ジェームズ・K・ポーク大統領は1848年にはキューバの買収を申し出ている。19世紀後半のスペイン植民地としてのキューバは破綻していた。強制収容所の設置やこれに伴う大規模な餓死や病死の発生を引き起こし、キューバの反体制派活動は活性化した。このような人道的惨事はアメリカ世論の関心を引き起こした。また、内乱がもたらすアメリカ資本に対する損害についてもキューバにおける関心を引きつけることに寄与した。このような背景からアメリカはスペインに対して抑圧行為の停止などを含めた最後通牒を突きつけ、スペイン政府はある程度従ったものの現地反体制派はこれに勢いづき紛争は激化した。メイン号事件⑤も起き米西戦争が勃発した。結果はアメリカの圧勝に終わり、スペインの影響力はカリブ海からほとんど取り除かれることとなった。アメリカのキューバへの介入はキューバの統治権を同島の人民へ返す為であると建前上された。しかし、この米西戦争後アメリカは間接的、直接的にもキューバを支配することになる。グアンタナモ基地、バイア・オンダ燃料基地を貸与させられる事となる。アメリカ占領下で作られた憲法は人権規定、三権分立など先進的な憲法を備える反面、上記の基地租借協定を憲法制定会議で可決させ、アメリカのキューバ支配の構造を制度的にも導入させた。キューバはスペインから独立を果たすものの実質的に支配者がアメリカに変化したことと同然であった、また、フィリピンにおいても当初は現地の反政府勢力に対して独立を見返りに戦争協力を得たものの結局それは反故にされ米比戦争へと繋がっていくことになる。このようなアメリカの帝国主義的な動きは現代もなおキューバ人の反米感情に繋がっている。その怒りはキューバ共和国憲法(1976年)の前文にも現れている。「(中略)1868年にスペインの植民地主義に対し独立戦争を開始した愛国者,及びその勝利はヤンキー帝国主義の干渉と軍事占領により奪われたが1895年の最後の一撃で独立戦争を1898年の勝利に導いた愛国者;」アメリカの影響下にあったキューバ人の心情が垣間見える一文であろう。(読んでいると俺も決起したくなるなぁ?!)
 独立後のキューバは脆弱な政権が続き平均2年にも満たない短期政権が続き、ようやく安定的な統治を行うことができるようになるのは第二次フルヘンシオ・バティスタ政権になってからであるからである。キューバは自身の基本的な自己政策の決定すらもアメリカの裁可を仰がねばならなかった。例えば両国の貿易協定においてはキューバのサトウキビ以外の農産物への生産制限がかけられるなど枚挙にいとまがない。アメリカ資本はキューバにおける収益率の高い産業を独占していた。アメリカの影響力はどのような人物の統治であったとしても存在し、キューバ政治の脆弱性がその結果なのか要因なのかは論争がある。アメリカ自身はこのような現状に対して、キューバを併合しようとする帝国主義的な考えには自らを律し、かつ貧困や無政府状態に陥らないように導きキューバに尽くしたと考えていた。このような傲慢な態度がキューバ人民にどのように映ったかは述べるまででもないだろう。
 1956年このような背景の中から革命は始まる。詳細は別項目に譲るが、革命の指導者カストロはわずか数十名から革命を成就させた。この背景には腐敗しきったアメリカの傀儡バティスタ政権と革命の熱意と民衆の支持厚いカストロという構造が存在した。当初カストロの革命は共産主義革命ではなく、バティスタ独裁政権を打倒とアメリカの影響力低下することが目的であった。アメリカ政府も疑いの眼差しを持つだけでアカとは断定していなかったのである。⑦アメリカはバティスタ政権への兵器供与を1958年に停止し、カストロ側との関係構成を開始した。カストロ側もバティスタに対する抵抗運動に共産主義勢力を取り込みつつもこの時点では自らを共産主義革命の旗手と評してはいなかった。しかし、キューバにおけるアメリカの影響力排除の段になると自体は一変することとなる。当然アメリカの政治経済的影響力を廃するということはアメリカの権益低下となり反発は避けることが出来なかった。農地改革法が通過するとアメリカ人の在キューバ資産は限定的ではあるものの没収され、当然のことながらアメリカからの反発を食らった。1959年にソ連のミコヤン第一副首相がキューバを訪問し、アメリカからの経済依存脱出のため1億ドルの信用供与が行われることが決定した。このようにアメリカからの反発からの自衛手段としてソ連への接近は避けられないものであった。しかし、カストロは急進的にソ連と接近することはなく慎重に行った。カストロはアメリカ企業が石油精製を拒否するとそれらの施設を国有化、アメリカはキューバからの砂糖輸入を95%に制限と報復合戦へと発展した。結局、アメリカとキューバは断交するに至る。アメリカはソ連とキューバの接近を間近で目撃し、キューバ革命を赤い革命であるという認識が決定的となってしまった。アメリカはカストロ自体を排除しようと画策を始める。CIAはカストロに対して脱毛剤を使い象徴的なひげを奪い取ることで権威の失墜を狙うという意味不明な作戦からアメリカとキューバ関係を決定的に決裂させるピッグス湾事件まで様々なカストロ追放計画を立案、実行した。特にピッグス湾事件が与えた影響は甚大なものであり、作戦そのものの稚拙さからの失敗とアメリカの関与が隠しきれずケネディ大統領はこの責任が当局にあることを認めざるを得なくなった。政権へのダメージとなっただけでなくラテンアメリカ諸国の反感も買ってしまった。この失敗からアメリカは経済的圧力しか、カストロ排除の選択肢は残っていなかった。OASによる武器禁輸措置、キューバへの完全な禁輸措置を取ったもののカストロ政権を転覆されるどころか禁輸品も品目は東側諸国から供給される事となり、キューバの東側体制への構造的な編入を加速させる事となってしまった。アメリカは反共要塞たる西半球にキューバという穴を自ら広げてしまう結末となったのだ。マングース作戦を始めとした政権転覆隠密作戦もCIAが自ら「カストロ体制は民衆に広く支持されており、予見可能な将来にわたり発生しうる国内での脅威に対処し、それを抑え込む力を十分に備えている。」と評した通り、アメリカの直接的な軍事作戦なしでは成立し得なかった。キューバ危機の間アメリカはピッグス湾事件の如く小規模な軍事介入では到底目的達成をすることは出来ず、キューバで政権打倒を行うには必然的に大規模な介入が要求されたのであった。
 キューバ危機はこのような背景を持っており、アメリカはキューバを打倒するには軍事介入は必須であった。一方キューバはアメリカとの対決姿勢を深めれば深めるほどソ連の力を必要とする構造にあった。

図1

『明解世界史図説エスカリエ 八訂版』p.192より引用
2『キューバ危機ミラー・イメージングの罠』p79より引用

①アメリカ海軍は核兵器を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下し、攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだった。政治将校が反対したことによって核戦争は回避された。
② 第15条 各国が自己を防衛し、自己の生活を営む権利は、他の国に対して. 不正な行為をなすことをその国に許すものではない。
③1950~54年のグアテマラ左派政権による反米的諸政策に対してCIAは反革命クーデターを支援。左派政権打倒され、軍事独裁政権へ移行する事となる。
④これは当時奴隷州南部と自由州北部が対立を深めている時期であり、このバランスを崩す恐れから実現されなかった。カナダを取り込むことによってバランスを維持しようという主張もあったが、当時の宗主国イギリスはそれを許すはずもなかったのである。
⑤メイン号事件の原因は未だに謎である。ボイラー不調による事故が有力な説である。アメリカ世論はスペイン人によるサボタージュであるとし、世論は一気に開戦が主流を占めた。
⑥キューバ共和国憲法-解説と全訳-」著吉田 稔
https://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-0470102311.pdf より引用 太字は筆者加筆
⑦ カストロはキューバ共産主義政党と距離をおいており、対立することすらもあった。
⑧1『明解世界史図説エスカリエ 八訂版』p.192より引用、2『キューバ危機ミラー・イメージングの罠』p79より引用

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