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やっぱり推しは尊い

推しは尊い。推しは推せるから推し。こんな当たり前のことにたどり着く際に見聞したカートゥーンと哲学の話、そして推しへの気持ちについて記録を残す。

ミッドナイト・ゴスペル。Netflixで観られるかなりクレイジーなカートゥーンという情報だけ知って、「テラハ休止中だしこれ観たら解約しよっかな〜」なんて軽い気持ちで観たらまぁ大変。ボーボボとポプテピピックである程度の展開に耐性ついてたはずなのに、映像の過激さと、その光景から乖離した哲学問答に脳を揺さぶられた。マインドフルネス、生と死、仏教などなど、GW終盤かつ自粛シーズンにはかなりヘビーだった。全8話を2周したけどそれでも哲学問答もとい音声に頭がついていかなかったから、とりあえず作品に関わりの深いマインドフルネスと禅のことをもう一度考えることにした。

たまたま落合陽一さんが禅とマインドフルネスについて対話を行ってたから、その対話と関連しそうなものをいくつか観た。「悟りを得る修行とかマインドフルネスって、結局頭の働きをアレするんだからマラソンでゼーハーすればおんなじじゃない?」って思ってたら、落合さんも集中力の観点からおんなじようなこと言ってた。以前noteに書いてるとおり、人類の考えることって私のような芸術ヲタクOLだろうが研究界を背負っている人だろうが変わんない。だから、マインドフルネスと禅って部分にはあんまり脳を揺さぶられなかった。

問題は、落合さんが使う「依り代」ってワード。「依り代」、すなわち「うちはうち、よそはよそ!」の「うち」の存在って、私にはまだ見つけられてない。多様性と自由が許容されつつある世界で生きるには、「うち」を自分の中で確固たるものにしないとアイデンティティ拡散待ったなしですよ。だからその「うち」ってなんだろう、かつて自分の拠り所にできたのは推しの存在だけど、今は推しを上位に担ぎ上げることはできないしな・・・って考えてたら思考が樹海から出られなくなった。

私は推しの作品から受けた影響を成長過程で血肉に取り込みすぎた。とはいえ、その作品と推し自体を「多様性に溢れる社会を生きるための依り代」にするには頼りないと思っている。推しは人間だ。人間は変化する。私も人間だから変化する。接点のない存在同士が変化していったらどこかで全く合わなくなる。そんなことは遠距離恋愛カップルよりも高確率で発生するにきまってる。(ちなみにこの発想は、『ドラゴン・ラージャ』っていう西洋RPG設定で東洋哲学問答を繰り返す小説でうっかり思想形成しちゃったところが大きい)

私の場合、数年前に推しがおふざけのすぎる宗教モチーフグッズを作った時に推しへの信仰を捨てた。それでも推しの作品は好きだったし、作品の「精神安定剤としての役割」に代替物がなかったからずるずると推し続けてはいるけど、もう「依り代」にすることはない。そんなこんなで推しへの懐疑と推しの作品への愛を心に同居させてきた。

結論として、今の私には「依り代」がない。答えが見つからない。ここをはっきりさせないとこれからの働き方とか生き方とか決められないってわかってるけど、問答法やっても自問しても見つかんなかった。

でも、その概念とは別にして、推しを尊いと思う気持ちは不変なのかもしれない、って思った。優先順位下がったり全てに対して肯定はしてあげられないけど、推しが世界に生み出す作品とは健やかなる時も病めるときも一緒にいたい。推しに見えてる世界を私も見たい。

そうやって考えると、そもそも「依り代は一つであるべきなのか」みたいな問題は、多分あるよね。拠点がブラジルと日本です!みたいなかけ離れ方すると不可能だけど、ドイツ・オーストリア・スイスみたく近いところで複数あればまぁなんとかなるのでは?なんて楽観視。まだ「依り代」の答えは探し続けてるけど、推しと推しでタイポロジーしちゃうような私なんだ、きっと繋がりのある答えが出せるはずだ。

だから、たとえ「依り代」にならない存在だとしても、推しは尊い。推すかどうかと「依り代」になるかどうかは別問題だ。今は供給が例年より先細っているけれど、いろんな制限がもっと緩やかになるまでは「依り代」問題を考えつつ、自分のコレクションで推し事に励もうと思う。




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