オレたちにとってのかわいい
僕らはあらゆるものをかわいいなと思える感性を持っている。そしてその時々によって含む意味合いも少しずつ異なる。レトリックとして分けるが、女性と男性でも結構そのニュアンスが違っていると思う。
僕はかわいいものが好きだ。しかしそれが人に言えるようになったのはかなり最近のことで、それは間違いなく僕が男であるという自意識が邪魔していたからだ。
そこで、一男性であるオレ、ひいてはオレたちが感じているかわいいものに対する感覚を、僕の拙い言語化能力を駆使して書き起こしてみたい。きっと共感してくれる人は多少いるのではなかろうか。
ここで僕が断っておきたいことは、性的な目線というものは今回の話には一切絡ませたくない。かわいいものに対する目線というものは、対象によってはどうしても性的な目線にも繋がってきてしまうものだ。ただ今回の話はそんななものは排除して、もっとピュアな心でオレがどのようにしてかわいいものに憧れを抱いているかという話がしたいのである。
かわいいの種類
かわいいを使用する際には大きく二つの意味があると思う。
・造形に対する絶対的なかわいい(この服の柄がかわいい、かわいい椅子、など、造形物に対して使うことが多い)
・小さくてか弱いものに対する愛おしいといったような感情が言葉に現れたときのやつ(動物や子供、キャラクターなどに使うことが多いだろう)
もちろん一度でどちらも混ざっている場合もあるし、言う本人のマインドによって用途はさまざまだが、大きな意味合いとしてはこの二つに分けられると思うのだ。前者はもはや世界に広まった”kawaii”とも表記できるものではないかと思うが、後者はやはり我々日本人特有のマインドなんじゃないかと感じる。
ボクにとってのかわいいもの
少し僕自身の話をしたい。
僕は小さい頃かわいいものが大好きだった。アザラシのぬいぐるみをかわいがって抱いて寝ていたし、そのぬいぐるみが汚れて親に捨てられてしまって酷く泣いたものだ。
テレビ番組では、仮面ライダーや戦隊モノを見たあと、そのまま続けて放送される女の子が見るようなかわいらしいキャラクターが出てくるアニメを観ていた。
ただいつからか、かわいいものを真っ直ぐ受容出来なくなっていく。かっこいいもの、おもしろいもの、グロテスクなものが好きなのが、男の子として真っ当な道なのだという意識が生まれ始めたのだ。思えばその頃から一人称がオレになっていったような気だってする。かわいらしいキャラクターが登場するアニメが始まると、こんなのは観ないと主張するようにすぐさまチャンネルを変えていた。
ただ、意識下ではやはりかわいいものを求めていたのだと思う。というのは、自意識が男の子になるにつれグロテスクなものを好んで見ていたりしたのだが、そういった残酷な描写を向けられる対象は多くの場合、かわいいキャラクターだったような気がするのだ。僕は真っ直ぐかわいいを受容することへの後ろめたさがあったため、グロい描写を使うことでなんとかかわいいものに触れようとしていたのだ。
カービィのかわいさ
カービィはかわいい。昔からカービィが好きで、新作のゲームが発売される度に買ってやっていた。
カービィの可愛さについてはここにある程度書いたので気が向いたら読んで欲しい。
かいつまんで話すと、かわいいという感情にはある種の搾取がある。対象と自分は対等ではなく見下ろすような形にどうしてもなってしまうのだ。別に悪いこととは言わないが、そういう側面に少し危険性があると思う。男性が女性に対してかわいいと思う感情と陸続きに性的な目線が発生するのも、この危険性があることを裏打ちしている。まあ冒頭で申し上げたように、今回の話に性的な目線は入れたくないのだが、このようなものが間違いなくあることは念頭において頂きたい。
そしてなぜそんな話をするかというと、やはりオレたちにとってのかわいいというのは、そういう搾取してしまう目線に対して内省的になってしまう側面があって、真っ直ぐ対象に向けてかわいいと思ったことをアピールできないのだ。つまり、何かをかわいいと思うと常に、それは”女性に対しての男性”的な搾取の形が発生してしまうかもしれないという後ろめたさが付きまとう。まあ、この部分に関しては、あまりそういうの考えないよという人も多いかもしれないが。
カービィは、それらの搾取を一気に引き受けるために、機械的な表情の変化しかしない。そこに感情が伴ったものに見えないので、かわいいという感情を向けやすいのだ。危険な話だが、そういう切ないカービィの在り方も含めて、僕はカービィが大好きだ。
サンリオのキャラクターに口がついていないのも、感情表現を少なくすることで、こちら側がそのキャラクターに感情をぶつけやすくするという効果を狙ってのものだ。まあ何度も言うように、かわいいものとはそういう人々の勝手な感情をぶつける対象であるという側面が常に付きまとうものなのだ。
かわいいとは切ない
なのでカービィのように、僕らがかわいいと思えるものはとても切ない。僕らが身勝手に向ける感情を、全て引き受けてくれているのだ。そして本人たちはそれらに気がつく素振りを見せない。気付かずずっと無垢なままでいてくれるからこそ、こちらは存分にかわいいと思えるし、同時にその在り方を憐れんでしまう。それがかわいければかわいいほど、向けられる目線を想像し切なく思う。それが、かわいいものの奥深さなのだと思う。泣きそうになっちゃうわよね。
かわいいは達成するもの
話は変わって、かわいいとは本来達成するものだと考えている。そう、求めるものではなく”成る”ものなのだ。女性がかわいくなりたいと願うのも、かわいいは達成するものとしてあるからだと思う。そして、達成する方法は様々だ。造形的なかわいさを目指すのも、無垢さをアピールするのも、かわいいグッズを所有するのも、かわいいを達成する方法だ。
しかし、オレたちは早々にして、それを諦めていく。もちろんそうでは無い人もいるかもしれないが、男の子、という自意識が、かわいいの達成から遠ざかることを余儀なくするのだ。そういうかわいいを達成することの羨望、叶わないものへの憧憬のようなものも、かわいいものに向ける眼差しに含まれているのでは無いかと思うのだ。
まとめると
そういう様々な目線が、かわいいなと思う気持ちには含まれている。オレたちがかわいいものを見た時、そういうかわいいものを達成しようとするものへの羨望と憧憬と、そして身勝手な感情を向けられるという在り方の切なさと、それを向けてしまう後ろめたさと、かつて正面から触れていたものへのノスタルジーと、ほんとに様々な角度からの感情が押し寄せてくるのだ。
そんなところだろうか。主語がでかいし、半分くらい個人的なものだ。もっと根拠を提示することでちゃんとそのでかい主語に該当することが言えるかもしれない。だけどあまり細かいことをここで言い過ぎるのもなんだか違う気もするし、感覚的にわかるかも、と思ってくれたらそれでいい。とにかく、かわいいってほんとに奥深い。二重記述どころじゃなく、三重四重にも視点が存在し、それらが複雑に絡まりあっている。
主語をあえて大きくしたが、かわいいってのは人それぞれのものだと思うので、こんなことを考えているやつもいるのだなくらいで思っておいて欲しいな。