クラシック音楽の入り口 みんなバッハに帰ってくる

アンドラーシュ・シフのコンサートが3月にある。
プログラムはBWV1052〜1056・1058(すべてバッハのピアノ協奏曲)。
つまり、まさかのオール・バッハ・プログラム!



世間のニュースやトレンドを追う手段を何一つ持たない「超情弱」なりに調べてみると、シフさんはオール・モーツァルトとオール・バッハのプログラムを会場ごとに交互に演奏するとか、ふええー。



その話をピアノの先生にしたら「やっぱり、みんな、最後はバッハに戻ってくるんだ」と、感心したような、驚いたような、納得したような、あるいはどれもが等分に入り混じったような、おそらくは長い年月を真剣に音楽に捧げてきた人だけが浮かべることのできる表情を見せた。



バッハだけでコンサートを開ける(そして聴衆が集まる)、それだけの知名度と技術と勇気を備え持つ演奏家が、この広く(そして深い)世界にいったいどれだけいるのだろうか?


レッスンはバッハ「インベンション(2声・ハ長調)」の続き。
先生からは「よくできてます」と、うんうんと頷きつつ褒められると同時に「ほんと、バッハって難しいんだからね!?」と冗談だか脅しだかわからないことも言われた。
確かに、バッハの曲は難しい。楽譜を見るより実際に手を動かす方が100倍は難しい、誇張抜きに。


バッハの「平均律」が音楽の旧約聖書に喩えられたりするように(新約聖書はベートーヴェンの32のピアノ・ソナタだって)、バッハはどこか堅苦しいというか、未だにどうしても「教科書的」な扱いを受けているきらいがある。
誰もが通らなければならないから義務として通るけれど、もしもショートカットできるならば敬して遠ざけたい、少なくともコンサート向きの「映える」音楽ではない。



でも、バッハの音楽はただ難しいだけではない、ただ理屈にうるさい「頭でっかち」では絶対にない。
むしろ理論に基づいた徹底した合理性から生まれる、躍動感に満ちたリズムや歌うようなメロディにこそ、バッハの本質があるのだろうと思う。



私は「インベンション」の練習を始めると、ちょっとだけ、と思って始めたのが、いつの間にか熱中して気がついたら小1時間くらい経ってしまった、なんてことがよくある。
それはきっと、「インベンション」という曲の内容の濃さだったり、音楽的な密度の高さを、素人なりに感じ取っている、それゆえに没頭してしまうからではなかろうか?


ドイツ語で「Bach」は、日本でいう「小川さん」みたいな意味らしい。
それでベートーヴェンは「バッハは小川ではない、海だ」と言ったと伝わっている。
生命の始まりであると同時に、すべての川がたどり着く先である存在。それが海である。


リヒテルも、グールドも、シフも。
ピアニストはだれもが、バッハに始まって、バッハに戻ってくる。
バッハは音楽の海だ。広大で、深淵で、決して汲み尽くすことのできない、命の源であり終着点でもある海。


私は、冬の寒空の下で、暗い海に降り注ぐ細く冷たい雨を想う。
蒸発した水は雲となって世界中をあてもなくさすらい、地上に降りてきて山や森の土壌を豊かに潤しながら下り、緩やかに、しかし時に激しく川を流れていく。
そして再び海に帰ってくる。おかえり。そういってまた、新しい旅の続きへと向かう。何度目かの、いってきます。



バッハは海だ。みんなバッハに戻ってくる。
私がその言葉の意味を本当に知るまで、いったいどれくらいの時間がかかるのだろうか。いったいどれだけの時間を音楽に捧げれば、バッハを「わかる」ようになるのだろうか。そんな物思いに耽ってみた。



そして気がつけば、太陽と月がそれぞれに少しずつ足りない2月に代わって、たっぷり31日の暦をもらった3月が顔を出した。もう冬は終わりだと言わんばかりに、外はちょっと暑いくらいの陽気になっていた。
終わりと始まり、春が近づいてきたんだ、と静かに思った。



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