SPY×FAMILY+BUMP 「運命の人に出会う」ための哲学
前回はスパイファミリーについて書いたので今回はその続き。
「SOUVENIR」を提供したBUMP OF CHICKENは、これまでにも多くのアニメに楽曲を捧げている。有名なところでいえば『テイルズ オブ ジ アビス』で「カルマ」、『血界戦線』で「Hello,world!」が採用された。また、meijiとコラボした「新世界」や、ポケモン25周年記念MV「GOTCHA!」を飾った「アカシア」も人気が高い。
多くのクリエイターがBUMPのファンを公言していたり、楽曲提供を求めるのは、BUMPの原作に対するリスペクトの深さが大きな要因である。
BUMPのメンバーはアニメ・漫画好きを公言しており、作詞・作曲を手掛ける藤原はインディーズ時代に、『新世紀 エヴァンゲリオン』に登場するヒロインである綾波レイに本気で恋に落ち、綾波レイのために「アルエ」という楽曲を作って捧げた、という逸話も存在している。
このように原作を重んじた楽曲は、BUMPファンのみならず多くのアニメファンに評価されている。特に、作中では直接言明されることのない、作者自身がメタ的に作品に込めた、秘めたるテーマや登場人物の内面を浮き彫りにし、原作の世界観により一層の広がりを与える歌詞は、コアなファンや原作者の心さえも鷲掴みにしてみせる。
「SOUVENIR」も例にもれず、SPY ×FAMILYという作品に彩りを与えることに、見事に成功している。「SOUVENIR」が浮かび上がらせるのは「選ぶこと」「運命」「出会い」といった、偽りの家族を通じて作者が描き出そうとする潜在的テーマである。
今回は、スパイファミリーと「SOUVENIR」の歌詞をもとに、「選択と運命の哲学」について考察する。
「選ぶ」のは誰か?「選んだ」のは私か??
「生きるというのは、常に大小様々な選択の連続である」とはどこかの偉い人が言ったのだろうけど、僕らは朝起きてから夜布団に入るまで、多種多様な選択をしなけそのならない。
朝食はパンとご飯どちらにしよう、朝礼に遅れないよう1本早い電車に乗るべきか否か、電車の中でどの曲を聴こうか、減量のためにデザートは避けるべきだけど食べたいな、とか、言い出せば日常のすべては選択の積み重ねである。
でも、その程度の選択で、何かが大きく変わることはおそらくない。あなたがパンの代わりにご飯を食べたせいで地球が滅びる可能性は0に等しい。誘惑に勝てず新作のプリンを食べたとて、そのせいで即に病気になるというわけでもないだろう。ほとんどの選択は、どちらを選んでも人生にそれほど影響を与えることはない。
一方で、この世界にはたった1つの選択によって、その後の人生を大きく左右されることになったり、生死を分けるような場合も存在する。「戦争を続けるか、やめるか」であれば、国家の存亡と数多の自国民の生命がかかった重大な選択であり、「まあもうちょっと様子みてみるか」では絶対に済まされない。
国家の話までいくといささか話が大きくなり過ぎるけど、1人の平凡な人間にも大きな選択が迫られる場面は、生涯のうちに何度かはあるだろう。どの大学を受験しようか、どちらの企業に就職しようか、ほんとうにこの人と結婚していいのだろうか、子供を作るのは厳しいかも、家のローンは35年でいいかな、老後の両親の世話はしたくないな、とか。
「選択」にも様々なレベルが存在するけど、僕がここでテーマにしたいのは、3番目の「1人の人間の人生を左右する選択」についてである。もっと言えば「運命の選択を迫られたときに正しい選択をする方法」を考えたいのだ。
「運命」は論理的に誤った選択である
スパイファミリーという作品は、まず黄昏=ロイドがアーニャを引き取るという選択を行うことからすべてが始まる。
孤児院を訪れたロイドが探していたのは「ミッションを遂行するにあたり、イーデン校に入学しうる知能を持つ子供」であった。ところが、ロイドが連れて帰ったアーニャという少女は、お金の計算もまともにできないような、頭の悪い子供であった。つまり、この時ロイドは論理的には、間違いなく「選択を誤った」のである。
スパイとしてのロイド=黄昏は早々に理性を働かせ「アーニャを捨てて他の子どもを探す」という選択肢をとろうとする。実際にロイド=黄昏はアーニャを置き去りにしようとして成功している。ここでロイド=黄昏は、スパイとして非常に合理的な振る舞いをしていることがわかる。
ところが、合理的選択を迫るスパイ=黄昏に代わって、アーニャに哀れみを感じる人間=ロイドがひょっこり顔を出す。ロイドは非合理的であることを理解しているにも関わらず、情に流されてアーニャを救いにいってしまう。
この時ロイドがとった選択は、スパイとしては100%誤りであり失敗である。しかし、その後の展開を知るスパイファミリーの読者と視聴者は、ロイドの選択が「正しかった」と感じるであろう。中には「いや、アーニャは捨ててくるべきだった」という人もいるかもしれないけど、それでは物語が成立しない。
そして何より、ロイド自身が、スパイとしての自らの選択の誤りを認識しながらも、もう一度やり直せるとしたら、自分はまたアーニャを連れて帰るだろう、と感じているはずである。ロイドはアーニャを選んだことを正しいと信じているはずだ。
アーニャという身寄りのない少女に、ロイドが無意識に自ら孤独な過去を重ね合わせ、捨てておけないと哀れみを感じた、というのは十分にあるだろう。
しかし、それ以上に、スパイとして常に冷徹なまでの合理性を要求される日々を送るロイドが、孤児院で”あくびの色した毎日を”送るアーニャと同じように、人生を劇的に変えてしまうような”種と仕掛けに出会”うことを望んでいたと考えるのは、憶測が過ぎるだろうか?
スパイであることを隠し、誰とも親密な関係を築かないロイドと、人の心を読める超能力のことを誰にも言わず、本来の自分を隠し続けるアーニャは、”心はしまって鍵かけて”生きているが、本当は”ちゃんと見つけられる 目印”に出会いたかったのだ。
ロイドがアーニャを見つけ、アーニャがロイドを見つけた。ロイドがアーニャを選び、アーニャがロイドを選んだ。選ぶというのは、選択者の一方的な行為ではない。それは一瞬のうちに互いが互いを認め合う、無意識の閃きがなす業である。
選択の正しさを決めるのは誰か?
選ぶ主体は、私であると同時にあなたでもある。私があなたを選ぶとき、あなたも私を選んでいる。それがロイドとアーニャの関係である。
では、この選択の正しさは何をもって判定されるべきだろうか?
アーニャは頭が悪い、よってロイドにとって任務遂行に適した子供ではない。
ロイドはスパイであり、常に生死の危険と背中合わせである。いつ自分の前から姿を消してもおかしくはない。選べるものなら、普通はそんな人物を父親にはしない。
論理的に考えれば、ロイド・アーニャの双方にとって、この選択は限りなく誤りに近いと断定できる。いや、よりによって最悪の選択をした、と言っても過言ではない。
それにも関わらず、僕らは、そしてロイドとアーニャも、この選択はなされるべくしてなされた選択であり、正しい選択であったと確信している。そうでなければ、ロイドなら今からでもアーニャを捨てることくらいわけはないし、アーニャだってロイドが冷酷極まりない人間であればなんとしても家を出ようとするだろう。でもそうならないし、僕らはそれを自然だと感じる。
選択の正しさは、事後的に承認される。正しさは選択をした人間が後になって自ら作り上げる幻想である。これが答えだ。
もう一度言うが、少なくともロイドは、自分の選択が合理的ではなかったことを理解している。それでもロイドはアーニャと共にミッションを続ける。
次の歌詞はロイドの心境を的確に表現している。
”こうなるべくしてなったみたい”と感じているのは、アーニャと共に家族としての時を過ごしてきた「今の」ロイドである。頭の悪いアーニャを子供にした選択の非合理性を認めている、現在のロイドである。
ロイドは出会った瞬間アーニャに運命を感じ取ったのではない。アーニャと共に人生を歩む中で、子供という未知なる生き物に直面して自分の内なる父性に目覚め、家族を持つ喜びと困難を味わい、人間としての成熟を促された結果、ロイドは「アーニャは出会うべくして出会った」とア・ポステリオリ(事後的)に認めるようになったのである。
ロイドは内なる声によって「アーニャとの出会いは運命だった」と信じることを迫れらているのであり、いまなおその確信を育てている途上なのである。
そういう意味で「運命」は、人間が自身を正当化し欺くための「幻想」であるとも言える。「ほかに選択肢はあった。それでもこうするしかなかったし、こうなる他になかった」というのは、矛盾した考えだ。それを「運命」という快い響きをした言葉に言い換えて、誤魔化しているだけである、ともいえる。
幻想=宗教・アヘン・運命。「創造」と「出会い」
だが、僕らは「幻想」の持つ力を否定するべきではない。
カール・マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」という言葉を残したが、これは極めて卓見であり、人間の精神の核心に迫る秀逸なレトリックだ。人間は何かを信じることなく生きることはできない。ドストエフスキーは「愛と信仰」を追求し、いまなお文学の主要なテーマであり続ける。もしも信じることを禁じられれば、人間は正気であることをやめるか、麻薬でもやらなければ生きていけない。
「運命」は人間の人生に彩りを与え、より豊かなものとするための「信仰」である。宗教が他人から与えられた「信仰」であるのに対して、「運命」は僕らが自分自身の手で作り上げるものだ。
僕らは「選ぶ」。選んだものから「運命」が生まれる。僕らは人生を賭して「運命」を育て上げる。それはやがて「信仰」に昇華する。このことを人は「創造」と呼ぶ。
それを見事に表現したのが「SOUVENIR」のサビの歌詞である。
景色はただの現象でしかない。花はだれが見ても花である。"美しい花というものはない"。
問題は、僕らが花を見て何を思うかだ。ちらっと見て何も思わず足早に通り過ぎるサラリーマンもいれば、この花壇ちょっと土の質が悪いんじゃないかしらと顔をしかめるマダムもいるだろう。
スパイ=黄昏は、花を見ても任務に関係がなければ、それ以上は花について情報を集めることを遮断するだろう。
ロイドが花を見て何かを思うのは、「そいえばアーニャはこの前チューリップを見て喜んでいたっけな」とアーニャの存在を思い出すからである。
アーニャという存在が、ロイドの世界を拡大する。ロイドは”…景色に ひとつずつリボンかけて お土産みたいに集めながら”家路を辿る。あの時アーニャを選んでいなければ、ロイドにとってこのような世界線は存在しなかっただろう。
世界に意味を与える主体はロイドであるが、ロイドを主体であらしめるのはアーニャの存在である。アーニャなくしてロイドは主体になりえない。”どこから話そう”と思う相手がいなければ、景色にリボンをつけて持ち帰る意味がない。
「運命」は育てるもの
結論をまとめると、「選択」の正しさは、その前にもその場においても判断できない。ある選択を「正しい」と信じることには、時として合理的判断が入り込む余地がない。それを僕らは「運命」と呼ぶが、運命は他者と共に時間をかけて育て上げるものであり、事後的に承認されるというプロセスを必要とする。
今回はロイドの視点から「選択」や「運命」について論じてきた。だが、BUMPの楽曲の最も優れているところは、視点の自由度の高さである。歌詞をアーニャの視点から解釈することもできるし、ヨルの視点でもダミアンの視点でも、誰の視点から解釈しようと成立する。カメラをいかように動かしても、決して映像がボケることがない。この「視点の揺らぎ」こそが、BUMPの楽曲の最大の特徴である。
次回はポケモンか野球の話をする。それにしてもいつになったら大谷さんの投手編を書くんだろう??
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