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映画『成功したオタク』
4月のある日、渋谷のシアターイメージフォーラムで映画『成功したオタク』を観てきました。平日だったことと、時間も中途半端だったからか、観客は5~6人くらい。
『成功したオタク』という言葉は、数多くいるファンの中でもアーティストにも認知されるようなファンのことらしい。
オ・セヨン監督はかつて推していたアーティストが出演する番組に出たり、直筆のサインをもらったりと有名なオタクだった。でもその推しがある日犯罪を犯してしまう。そこから自分とその周囲の人たちを対象に、ドキュメンタリーの撮影を開始する。
推し活という言葉がほぼ定着して、かつてのオタクという言葉のイメージからは大きく変化したように思います。ある特定の他者を指すことが多かった「オタク」という言葉が、最近では自分や同じ対象を推す人のことを指して使われる表現もよく目にするようになりました。ごくごく少数のマイノリティだった(あるいは母数はもっといるけれど隠していた)オタクが、マジョリティになりつつある昨今をおもしろく感じています。
少し話が逸れました。
時間、お金、感情など、自分の人生の多くを賭けた対象(推し)が突然、性犯罪者となってしまう。自分の支払ったお金が、推しの犯罪に通ずる遊びに使われているかもしれない。ファンの多くは女性であるにも関わらず、自分の推しは女性に対する犯罪を犯している、など、フェミニズム映画のようでもあり、興味深く観てました。
成功したオタクでもある監督が、客観的になれるというのがすごいな・・・というのが一番最初に感じた感想です。推しの魅力の渦中にいたのに、突然すぎる現実を突きつけられたからなのかもしれませんが。映画の随所に監督の感受性や知性の高さを感じました。(推しからのメッセージの「ソウルの大学に行けよ!」で本当に学年一位とって、ソウルの大学に行くんだもの、推しの言葉の力といえど、オ・セヨンさん、すごいよ…!!)
映画では、犯罪を報じた記者にもインタビューに行っています。推しの犯罪を信じたくないと思うファンからのバッシングがあったことを知ります。先月、BBCもその記者のインタビューを報じており、映画で感じたよりももっと壮絶だったことが分かります。
もし日本で同様のことが起きたとして、オ・セヨン監督のように、フェミニズムの目線でいられるだろうか…とふと思ってしまいます。もし自分の推しではなかったらある意味他人事でもあるので、犯罪に対して自分の言葉でNO!を突きつけられるように思います。ただそれが自分の推しであった場合、しかも推しに認知されているような人であった場合、記者をバッシングした多くのファンのような行動になってしまうのでは…と思ってしまいます。となると、本当にオ・セヨン監督すごい(2回目)と思ってしまうのです。
そして顧みるのは自分の推し活です。幸いにも(?)様々な酸いも甘いも経験した後に家庭をつくり、子どもを育てている立場になってしまったので、自分の推し活は凪いでいるような状態です。…が、20年若返ったら自分の推し活を客観的に見ることができるだろうか、いやできない(反語)ですね。今は熱狂的になれるエネルギーがすごい…若いっていいわぁ…な状態ですが、若いときはそれが苦しく苦しくてしょうがなかった。そんなときに推しが罪を犯すのは、心がぐしゃぐしゃになってしまって信じたくない気持ちになってしまうだろうな、と想像します。そんな凪いだ状態の私ですら思いを乗せすぎるのはいかんな…とか、結局推すって何だ?…とか思ってしまいます。見る人にとっては冷や水を浴びせられたように感じるかもしれません。はっと我に返るような感じもしたので、私もどっぷり浸かっていたのかも。