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銀河鉄道の夜 ジョバンニの町の地図を考える
こちらの記事で、私はジョバンニの町の地図についての考察沼にはまった。以降ずっと考えてしまっている。その続き。
「銀河鉄道の夜」は、何度も推敲されており、途中段階の原稿が何通りか残されているという。それを、使用したインクの色や原稿用紙などから研究者たちが執筆時期を整理してきた。今読まれているメジャーなものは四次稿と呼ばれるものだが、それ以前に書かれた初期型三次稿とはガラっと内容が変わっているという。
初期型三次稿を読んではいないが、調べによると
・ブルカニロ博士がでてくる
・カムパネルラの死は仄めかされているだけで川での捜索シーンはない
という。
青空文庫にあるこれは初期型三次稿とも少し違う編集になっている。どの原稿が最終型なのかを研究する過程で産まれた産物と思われ、四次稿と三次稿が混ざったような編集になっている。
ブルカニロ博士の代わりに四次稿ではカムパネルラの父親である博士に置き換わるのが、カムパネルラの父親とブルカニロ博士が両方でてくる。
また、カムパネルラ捜索の後、丘に戻り銀河鉄道に乗り込む。
だが、決定的に異なる部分を見つけた。
こちらの稿には、ジョバンニが牛乳を取りに行ったが受け取れず、級友に出会し逃げるように丘に登るシーンで、「北の方の町はづれへ走った」という、方角や町の様子が示され、橋を渡る描写があるのだ。
これは、四次稿には無い。
"けれどもジヨバンニは、まつすぐに坂をのぼつて、おつかさんの家へは歸らないで、ちやうどその北の方の町はづれへ走つて行つたのです。そこには、河原のぼうつと白く見える小さな川があつて、細い鐵の欄干のついた橋がかかつてゐました。"
が、
"ジョバンニは、なんとも云えずさびしくなって、いきなり走り出しました。"
と、あっさりしている。
なぜ賢治は最終稿で方角を削除したのだろうか。
調べていたら、河本義行という人物にいきあたった。
盛岡高等農林学校時代の文芸同人仲間の河本義行という人が、海で人を助けようとして命を落としたのが、賢治が亡くなる2ヶ月前だったという。賢治が仲間の死を知っていたのかどうなのかというのが争点らしいのだが、同窓会報により知っていたのではないかという。
その後に、カムパネルラがザネリを助けて水死する詳細なシーンが書き加えられたというのだ。このシーンは、初期型三次稿にはないという。
こちらの本に、ジョバンニの町の地図に関する考察が記述されている。
![](https://assets.st-note.com/img/1714009697001-1nvv2fHJyk.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1714009698516-apvFgyUSwc.jpg?width=1200)
「北に向かって走った」を元に、十字路を曲がった方向などからマップ化したものを、川を北上川として花巻にあてはめると、天気輪の丘は、羅須地人協会にあたるというものだ。
南北を実際の花巻と逆にしたのは、どうやら賢治には北に対して特別な思いがあり、北に向かいたいという特別な気持ちがあるから、らしい。
ということは、町の南にある羅須地人協会を、北に設置したかった、というわけなのだろうか。
だが、賢治は四次稿にて「北」表記を無くした。
なぜなんだろう?
カムパネルラを水死させることに決めたゆえに、向きがあわなくなった、のではないだろうか?
では、なぜ向きが合わなくなったのか?
ここで、私はひらめいてしまった。
「三次稿までは盛岡の「舟っこ流し」をモデルに北上川を想定していたのが、カムパネルラを水死させるにあたり、子どもの頃同級生を失った豊沢川に変更したのではないか?」
そうでなければ、方角を削除する必要性がないじゃないか。
川の変更に伴い、きちんと方角を定め直して書き換える時間の余裕は残されておらず、矛盾が生じる橋も方角も削除したのではないだろうか?
ということは
この操作により、
「花巻を南北に反転させる意図すら捨てた」
ということに、なりはしないか?
そんなことよりも、「自分のことは勘定に入れず」に水に飛び込んだカムパネルラをどうしても描きたくなったのだろう。
三次稿までは、羅須地人協会が希望だった。
それが、病気により頓挫した。
死を意識しだし、再度法華経に依存するようになった。そういった心境の変化もあったのかもしれない。それにより、方角を書き換えることもしなかった、ようにも思えてきた。
よって、四次稿にて実際の花巻と重ねるのは、本来ナンセンスなのかもしれない。
だが、最後に加筆されたというカムパネルラ捜索風景には、
"そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。"
とある。「大きな橋のやぐら」とは当時建設されたばかりの鉄橋である朝日橋だと言われている。
とすると、それは北上川にかかる橋であり、豊沢川ではなくなり矛盾が生じる。
最後に加筆した際に朝日橋らしき橋を描いたのはなぜだろう。
死の少し前に櫓の立派な鉄橋が出来た。
ジョバンニたちの町にも立派な橋をかけたくなったのかもしれない。