他者に「なりすまして」生きる

「小説は、常に他者の目から見た別の世界を想像するトレーニングです。人々が小説を読み始めた頃、社会の暴力は減少したのです。誰であれ拷問者にも殺人者にも、恐ろしい人間にもなり得るのですが、精神や心、魂・・・他者の視点に立つことは常に道徳的行為そのものなのです、何者であれ。」(ダニエル・ケールマン  NHK、Eテレ『欲望の時代の哲学2020、マルクス ガブリエルNY思索ドキュメント~第四夜 わたしとあなたの間にある倫理』から)

私が他者の視点になりうる、私が他者と態度を合わせうる、私と他者が共有しあえる場所がM・ガブリエルのいう「意味の場」なのである。

思考という手探りの感覚を使って(思考は感覚である)、当座の自分と新たに出会った他者の視点の間を行き来し、自己変容を引き起こす新しい布陣を経験していく、これが彼が言う「私が他者と調子を合わせる」と言うことなのであろう。

<他者になりすます>、これは社会学者の宮台真司が言ってる言葉であるが、なにも難しいことを言ってる訳でない。我々の自我優位の現代生活のなかで忘れがちな、脳の可塑性、経験・学習といった馴染みの概念を、他者との関係でダイナミックに言い直しているに過ぎない。

ライプニッツのモナド論やベンヤミンの布置 (コンステラツィオーン)との関係で考えるのもいいだろし、安冨歩のコミュニケーション論の学習過程、ハラスメント発生の機序を参照してみてもいいだろう。主観による観念操作は自己変容を伴わずにいられないのである。

更に言うなら、主観や主体といったものは始めから自明なものとして存在するものではなく、対話の場で、問いかけられることによって<いま・ここ>に召喚されるのである。

私は自分の名前を呼ばれることによって、「現在へ、みずからの現在へ、みずからの内面に、おのれ自身のうちに呼びもどされるのである」(ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』)。(村岡晋一『名前の哲学』講談社2020年,p.130)

これらの問題系は、「私は君が<君>と呼ぶ人だということである。・・・・つまり、私は私のものではなく、君のものなのである」(ローゼンツヴァイク)ということが示しているように、マルクスの疎外論、疎外からの自己回復としての実践の問題を参照に、もっと多くのことを語り直すべきなのかも知れない。

(11) 哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。大事なのは、世界を変えることだ。(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」)

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