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有余涅槃への途を求め続けて、路半ばで倒れるのかもしれない。

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有余涅槃への途を求め続けて、路半ばで倒れるのかもしれない。

最近の記事

お金で友達をつくる

若きマルクスは、「君は、愛をただ愛とだけ交換できる。」(『経済学哲学草稿』)と言った。貨幣を否定してしまったのである。しかしそれよりも2千年近くまえに聖書は貨幣を積極的に肯定している。 イエスは、「友達こそがお金を愛に変換してくれる」と言ってるのだ。赤の他人がうまく分業・共生するために発明された貨幣経済が、世界中に拡大する時代に興ったキリスト教は、何千年かかけてヒトが手に入れてきた貨幣という知恵を、親しい他者というお金を愛に変換してくれる媒体とするすることでオブラートに包ん

    • 誤解というコミュニケーション

      「〔中沢〕・・犬と人間との関係は、わずかなコミュニケーションとほとんど大部分のディスコミュニケーションでできています。おたがい誤解だらけです。・・・犬と散歩していると、世界ってこんなふうにできているんだなって、しばしば感動を覚えます。・・つまり、違う意識の構造を持った者同士が、誤解を伴ったディスコミュニケーションをすることによって世界は成り立っている。そこには、無数の誤解やずれがあるけど、そのディスコミュニケーションの中で、この世界の豊かさがつくられているとも言えます。」(太

      • 答えがあってはいけない

        「・・・生きることの意味。これらの問いは、答えではなくて、問うことそれじたいのうちに問いの意味のほとんどがある。これらの問いとは一生、ああでもないこうでもないと格闘するしかない。」(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書2010年,p.18) 「よく知られているように未来を探ることは、ユダヤ人には禁じられていた。トーラーと祈禱書は、それとは逆の、回想することをかれらに教えた。」(鹿島徹『[新訳・評注]歴史の概念について』) 19世紀における社会主義についての様々

        • ベンヤミン 死後の生 希望ということ

          アーレントは「歴史の概念について」の筆写稿のひとつを生前のベンヤミンから託されていて、ベンヤミンの死ののちに、ニューヨークへ向かう船の出航を待つあいだ、リスボンの港でまわりの難民たちにそれを読み聞かせていたといいます。…この一節をたずさえて海を渡ってゆくアーレントの姿も、二〇世紀の思想史を考えるうえで、私たちが逸することのできないものです。(細見和之『フランクフルト学派』、89頁)

        お金で友達をつくる

          グラウンディング(グラウディング)について

          「思い切って何かに自分の行為を委ねてしまおうという無謀ともいえる身体の振る舞いを、『投機的な振る舞い(entrusting behavior)』と呼ぶことにしよう。一方、そうした投機的な行為を支え、その意味や価値を与える役割を『グラウンデイング(grounding)』と呼ぶことにしたい。‥『私たちは地面の上を歩くと同時に、地面が私たちを歩かせている』―ちょっと意外だけれども、このように『私』を主語の座から降ろしてみると、なにげなく街を歩いていても、人と言葉を交わしていても、新

          グラウンディング(グラウディング)について

          隣人を愛すること

          ひとまず、母が子を愛するのは自然、或いは自明なことか?ということから考える。 A 他者からの贈与と他者への贈与が一つのことであるような生を考えてみる。(母−子) B 他者のための生産が自己のための生産に帰結するような行為を考えてみる。(分業) C もっと抽象的に母から一方的に愛を受けていた子が、母として一方的に子に愛を与えるようになるという反転を考えてみる。(成長)  Aは、母が子を育てなければ子の生自体がありえないという完全依存の段階  AからBの間にはCという反転が起

          隣人を愛すること

          自我・・・自己とその像との分裂

          この分裂は人間の欲求の鍵をも握っている。その分離を再びもとの一体のものにまとめ上げたいという熱望こそが、人生そのものである。・・・この分裂に由来する欲求こそが、世界に意味を与え、私たちに意味を求めさせるものだ。・・・意味はそこにあるもの自体によって生じるのではなく、外面的には既にあるものの間に発生する分裂、内面的には他の何かとの関係によって生じるのである。私たちのもとの一体に戻ろうとする本能的な欲求は、この自分自身と自分の像との分裂から生じる。この分裂を取り除きたいという全体

          自我・・・自己とその像との分裂

          世界を認識する最初の規則

          ベイトソンの考えを簡潔に言えば、音声言語では何かがないことを、つまり「〜がない」という否定を表現できるようになったことが身振り手振りとは決定的に違う点だ、ということである。(ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』,pp24-25) ウィルデン(Anthony Wilden)は・・「〜ない」という単語はもともとは、単にAまたはBを選ぶ行為の規則そのものだということを示した。しかし、このAまたはBを選ぶ行為は人間が行ったり考えたりする全ての事柄に暗黙のうちに含まれているものであ

          世界を認識する最初の規則

          ゲーテのデモーニッシュdämonischなもの

          「この<デモーニッシュなもの>の概念をもってゲーテは、その自伝作品の最期の章を書き出している。 「この伝記的な報告を進めるなかで、子供が、少年が、青年が、それぞれに異なった道をたどって、超感性的なものに近づこうとした様をつぶさに見てきた。初めは心の向くままに、自然の宗教に目をやり、次には愛情をもって既成の宗教につながり、さらに自分自身のうちに集中することによって己の力を試し、そして最後に、普遍的な信仰に欣然として帰依したのであった。これらの宗教のはざまをあちらこちらさまよい

          ゲーテのデモーニッシュdämonischなもの

          「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」

          「≪・・・われらは前の方をもうしろの方をも/見ようとしない、波の動きに身をゆだねて、/海に浮かんでゆらぐ小舟に乗っているように。≫ ・・・それにしても最後の三行は、静かな侘しさをたたえてかすかに揺いでいるような音調において比類ない。 「アドルノはこれを解釈して、前の方を見ないのは抽象的なユートピアを求めることが許されないからであり、後ろを見ないのは、崩れ去ったものはもはや取り返しがつかないと自覚しているからだという。 「・・・「波の動きに身をゆだねて・・・Uns wie

          「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」

          特権的な視点を獲得してしまうということ

          「存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。 「そのように問うとき、すでにあの始原の調和は破れ、問う者はもはや原始の出来事のうちに包み込まれていることはできない。こうして<叡知>との<調和>がそれへの<欲求>、それへの<愛>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。‥ハイデガーは、このプラトンとアリスト

          特権的な視点を獲得してしまうということ

          擬似的な因果関係

          最近次々と映画化されて注目される佐藤康志の小説では昭和50年代構造不況下の函館の職業訓練校が描かれる。失業者に職業訓練をする職業訓練校には、自動車整備工の養成科と大工養成の建築科があったという(中澤雄大『狂伝佐藤泰志』中央公論新社)。 なるほど確かに、前者はモータリゼーション、後者は個人住宅投資という外需から内需への拡大策による生産構造問題の打開策だった。高度成長が終わった日本経済は半世紀かけてその転換を行ってきた。現代は再びまたその転換が求められている時代だと言うことだろ

          擬似的な因果関係

          「人間は知覚像の束である」

          「人間は知覚像の束である」

          ラカン「三人の囚人」の寓話

          1 三人の囚人A・B・Cがいた。所長がやって来てこう言った。「ここに5枚の円板がある。3枚は白〇〇〇で2枚は黒●●だ。これをお前達の背中に貼り付ける。他人の背中を見ることは許されるが、話をしてはならない。そうして、自分の背中の円盤の色が分かった者だけが、その理由を論理的に正しく構成できた者だけが解放される。」そして所長は3人の囚人の背中に、白い円盤を貼った。(A〇・B〇・C〇) 2 3人は同時に所長のところにやって来て、同じ論理を述べたので、3人とも解放された。 *****

          ラカン「三人の囚人」の寓話

          「究極の他者としての死者」

          末木文美士の思考は「究極の他者としての死者」という発見から始まっている。 他者とはそもそも理解不可能なやっかいな者のことであるという認識はパラノイアである人間にとってどれだけ救いとなることか。 【決定論と主体的実践の意味】 唯識法相宗で立てる五性各別(ごしょうかくべつ)説は、「誰でも仏になり得る」とする悉有仏性(しつうぶっしょう)説に対して、それは先天的に決まっているという決定論であるという。これはインドのカースト制度に由来する考え方だというが(末木『仏典をよむ』p.17

          「究極の他者としての死者」

          純粋経験

          「「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは、誰かその経験と独立のある人物がたまたま持った経験を述べている文ではないのだ。もし強いて「私」という語を使うなら、国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、そのこと自体が「私」のである。だから、その経験をする主体は、存在しない。西田幾多郎の用語を使うなら、これは主体と客体が別れる以前の「純粋経験」の描写である。」(永井均『西田幾多郎』角川ソフィア文庫2018年,p.17) 「西田の考え方では、あえて「私」ということを

          純粋経験