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抜け落ちてゆく思考をすくうのは、吹き抜けから注がれる光

抜け落ちてゆく日々の思考をどうにかすくいたくてずっと悩んでいた。
ここでのすくうとは「掬う(拾い集める)」とか「救う(取り戻す、生き返らせる)」ことを指している。

思えば幼少期から思考や想像することがストレス発散だった。お散歩をしながら、お風呂に入りながら、ごはんを食べながら、などなど隙があれば自由に物思いに耽っていた。
高校生くらいからSNSを使うようになると、頭の中で考えたことを写真と言葉を組み合わせて保存するのに最適なInstagramにどっぷり浸かった。それだけならまだよかったけれど、SNSを使っている中で即時性が高く分かりやすく見栄えのいいように削ぎ取られた情報を重宝する癖がついた。

SNSというものは容易に快楽(=情報)を得られる薬みたいなものだと思う。最初は楽しくても「綺麗で広々として見えるのに、実はガラス張りで広く見せてるだけの部屋」みたいな窮屈さに息が詰まる。
Instagramは他人に見せるためのものになり、自分の思考は型に押し込まれて形を矯正されて、最後は全部ごみ箱に落ちていくような感覚になった。

拾おうとしてもするすると抜け落ちていってしまう思考をどうにかして救いたい。どうにかして掬いたい。
そんな思いからここ数日、Instagramはひとまず止めて、noteに日々の写真と考えたことを保存してみることに決めた。

また型にはめられてするすると抜け落ちているな、と感じたときのために今の自分をセーブをする。
抜け落ちることは新陳代謝にもなるし悪いことだけではないけれど、抜け落ちたものに光を注いでちゃんと認識しておきたいのです。
今の自分の思考から抜けた、かつての思考はいつかの自分を救うこともあると思うのです。

救われる思考からの目線ってこんな感じかな?と思うような写真があったので、今日は富山市ガラス美術館の1階から見上げた吹き抜けの景色をヘッダーにしました。
そういえば通っていた高校にも吹き抜けがあったなあ。
吹き抜けの優しい光は暖かく降り注ぎ、いつも私をすくってくれる。


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